2010年1月22日金曜日

著作集:高校生と語るポストモダン ~藤本研一の考えたこと~

著作集:高校生と語るポストモダン ~藤本研一の考えたこと~

扉の言葉

学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである。

(林竹二『学ぶということ』)

はじめに

 私が大学1~3年間のあいだに書き綴ってきたあれこれを一つにまとめたい。たとえ後から「あのとき、何でこんな文章を書いたのだろう」と赤面しようとも。そんな願望が私にはある。

 私は「いま」を大事にしたい。私の興味や関心は次々移り変わるからだ。まぎれもなく私が大学で三年間生きてきた証しを残したい。人間が生きることはそれ自体ドラマチックである。けれど形にしなければ残せない。時間の流れは誰にも止められない。ファウストは「止まれ時間よ、お前はあまりにも美しい」と叫んだのだった。それゆえ形にしたいのだ。書物は時間を止めることができるからだ。

 大学3年間のあれこれが、この文章には含まれている。途中、ブログを書きはじめてからこの傾向は加速された。辛いとき、キツいとき、疲れたとき、自信を喪失したとき、私はノートに思いを書きなぐった。キーボードを叩いた。時には〈クリアアサヒ〉を片手にして。そうしてここまで生きてきた。

 「書くことだけがお前を助ける」との言葉。ある本に出ていた。実体験にもとづいて、この言葉は真実だ。書くことでもたらされるカタストラフ。これは何物にも代え難い。これからも私は書き続けるであろうし、そうしなければ私は死ぬしかない。

 自己満足の追求。いいたい人は言うがいい。自分は将来、必ず一流の教育学者になる。その際の発想のヒントとして、この処女作を出すのである。


目次

はじめに

第1章 エッセイ

   11年目のサカキバラ

   退廃文化の向こうに〜早稲田祭に思うこと〜

   大学訪問記:玉川大学

   「にもかかわらず」のボランティア

   ひとつよりふたつ

   ワセダ生、母校へ帰る

   拝啓 寺山修司様

第2章 対談風評論

   『高校生と語るポストモダン』

第3章 小説・詩  

   ぽっぽこねんじゃ、あるいはサザンオールスターズの夏。

   教育とは

第4章 書評・映画評論

自殺・じさつ・ジサツ

たまには本を投げ出して…

青春の混乱と、葛藤。

人間原点に回帰せよ!

「はじめに一流企業ありき」な就活、やめませんか?

『三色ボールペンで読む日本語』。それ以後の私の三色生活。:

昭和天皇の戦争責任。 

全文主義の功罪。 

あなたにとって、大学とは何ですか? 

終わりに

第1章

エッセイ

   

11年目のサカキバラ

退廃文化の向こうに〜早稲田祭に思うこと〜

大学訪問記:玉川大学

「にもかかわらず」のボランティア

ひとつよりふたつ

ワセダ生、母校へ帰る

拝啓 寺山修司様


11年目のサカキバラ

1997年も、神戸が揺れた

 「サカキバラ」事件を、覚えておられるだろうか。漢字で書けば酒鬼薔薇。1997(平成9)年に日本中を震撼させた事件だ。「酒鬼薔薇事件」は通称で、正式名称は神戸連続児童殺傷事件という。1997527日、市内の中学校正門前で小学校6年生児童の頭部が発見される。口には2枚の犯行声明文。1枚の紙には、「酒鬼薔薇聖斗」(さかきばらせいと、という名前があり、もう1枚には次の内容が書かれていた。

「さあ、ゲームの始まりです/警察諸君、私を止めてみたまえ/人の死が見たくてしょうがない/私は殺しが愉快でたまらない/積年の大怨に流血の裁きを/SHOOLL KILL/学校殺死の酒鬼薔薇」

注…shoollschoolの書きまちがえだと言われる。またこの声明文は、さまざまな書籍などの引用から構成されている。

 この事件の3ヶ月前の2月10日と316日。神戸市内ではハンマーによる通り魔事件が起きていた。当初、20代から30代の男性が犯人像であったが、被疑者として捕まったのは14歳の少年。いわゆる、「少年A」とされる人物だ。冒頭の殺害事件と、同一人物による犯行であった。

事件当時、昭和632月生まれの私は小学校4年生であった。郷里は兵庫である。といっても、神戸まで2時間は車でかかる片田舎だ。四方は山に囲まれている。家に鍵をかけずとも、盗みを働く者がいないほど、のどかなところだ。事件が起きることもほとんどない。

それでも、この酒鬼薔薇事件のあと、犯人がつかまるまで、「登下校の際、不審者に十分気をつけること」と注意されていた。防犯ブザーも支給され、集団登校に加え、集団下校が義務づけられた。「まっすぐ家に帰りなさい」としつこく注意を受けた。酒鬼薔薇事件は私にとっても、身近な問題であったのだ。

子どもを見ない教育思想家たち

 この事件から、11星霜。少年Aは成人し、社会にも復帰した。このあいだに、「17歳の犯罪」を始めとする少年犯罪が、週刊誌・ワイドショーを賑わした。少年法の改正も、この11年間の出来事だ。

酒鬼薔薇事件は、教育行政のあり方を再考させるきっかけともなったようだ。どこか心に影を持った存在として、子どもが認識されるようになった。思想界も同様に、子どもへのまなざしが変化した。この酒鬼薔薇事件は重要なインパクトを今なお持っているのである。

教育学者・佐藤学の著書に、『身体のダイアローグ』(2002年、太郎次郎社)という対談集がある。佐藤氏のおこなってきた、さまざまなフィールドの知識人との対談を納めてある本で、何度も対談のテーマになっているのは、本稿で示した酒鬼薔薇事件だ。1997年の事件発生直後の対談も、入っていた。以下は、19971121日の『週刊 読書人』掲載分の写真家の藤原新也との対談だ。

佐藤:中学生、高校生の多くは、この事件を他人事と考えていません。とくに「透明な存在」(藤本注 酒鬼薔薇が自身の説明の中で使った言葉)というのは人ごとではない。一触即発すれば、自分たちの中でも起こりうる事件としてとらえている。教師たちは、その部分をある程度感じ取ってはいるんだけれど、どう受け止めていいかとまどっている。(34項)

この部分を良く見てほしい。「中学生、高校生の多くは、この事件を他人事と考えていません」とある。どの中学生・高校生も、少年Aのような行動に走る可能性があるということを、中高生たちが自覚している、というのである。このような論調は、「まじめそうな子がキレると、何をするかわからない」などと、ほかの多くの少年犯罪報道でもいわれている。

ところで、酒鬼薔薇事件があった当時、いまの大学生は小中学生だった。酒鬼薔薇のすぐ下の年代だ。つまり、当時の知識人にとって、我々の世代は「誰もが酒鬼薔薇になりうる存在」、と見られていたのである。

けれど、本当に自分たちは当時、「酒鬼薔薇は他人事でない」と考えたであろうか? 私には、そんな記憶がない。周りの友人に聞いてみても、いなかった。私は、「酒鬼薔薇事件は酒鬼薔薇本人、つまり『少年A』という一人の異常者が犯行を行っていた」ものと考えていた。自分が酒鬼薔薇と同じ要素を持つとは、考えたこともない。しかし、佐藤学や彼の対談者は、“今の子どもたち皆に、少年Aの要素がそなわっている”と考えているようだった。

 この佐藤学と同様の主張をした人物は、多くいた。1997年のニュース番組内で、佐藤学同様か、それ以上の主張をした者もいるのである。いわゆる知識人の、ラジカルさを思う。たった一人の例から、多くの人々に敷衍させる。少年Aという「異常者」の犯行を見て、「子どもは皆、少年Aになりうる」と考えてしまう。

 実際、酒鬼薔薇事件を見て、当時の知識人たちは気味の悪さを感じたのだろう。「いまの子どもは変だ」、と。しかし、早急すぎる発想ではないか。私という、酒鬼薔薇事件を「『自分たちの中で』『起こり』えない事件だ」と考えた子どもがいたのだから。

異常者の行動が、世に広まる時代

なぜ、思想家をはじめとする知識人は、ラジカルに子どもを見てしまうのか。私は、マスメディアの発達(特にテレビジョン)が理由であると考える。

私の認識の中では、異常者は常に社会にいた。けれどかつてはマスメディアの発達が無く、その異常者のおこした犯行が世のなかに知れ渡らなかった。日本国内の一地方の事件が、日本津々浦々まで浸透することは、マスメディアの発達するまでなかったはずである(赤穂浪士レベルならあるかもしれない)。近年のマスメディアの発達により、1人の異常者の行動が、日本中に知れ渡るようになった。そのため、通常ならば「少年Aが異常だった」となっていたものを、「今の子どもたちは、どこか心に闇をもっている」と大人たちが考えるようになったのではないか、と思うのである。

日本において、もっとも少年犯罪が多く、凶悪であった時代はいつかご存知だろうか。1997年? 違う。現在? ノン。正解は終戦直後。少年による万引きはもちろん、放火・強盗・殺人などが、現在の基準よりはるかに多かった。それだけを見ても、少年犯罪が凶悪化しているとはいえないはずである。「生きるために必死だった」といえばそれまでだが、「最近、少年犯罪は凶悪化している」「少年犯罪の数が増えている」というとき、人々は終戦直後のことを考えていない。凶悪な一部の少年犯罪を何度も報道することで、いまの子どもたち皆が凶悪に見えてしまうのである。

ともあれ、知識人による「最近の子どもたちは、酒鬼薔薇を人ごとだと思っていない」というラジカルな認識は、マスメディアの発達が支えているのである。

 

ひとりを見て、勝手に全体を判断してはいないか?

たった1人を見て、全体を判断する。酒鬼薔薇事件において、知識人たちが使った発想である。「酒鬼薔薇と同じ要素を、いまの子どもは皆が持っている」、と。一度考えてしまうと、もうこの発想から離れられなくなる。子どもを薄気味悪く感じるようになる。発想の「例外」にあたる人物が多いときも、「例外」が見えなくなってしまう。一人ひとりと会って、話さなければ分からないことが現実には多いにもかかわらず、一度決め付けてしまうと、すべてがそう見えてくる。「実際に子どもたちと話して、確認してみよう」とは思わなくなる。

 私は別に当時、少年Aに心引かれることも、あこがれることも無かった。心に闇を持っていた記憶がない。というより、あれだけ1997年は酒鬼薔薇事件がとりただされたにもかかわらず、少年Aと同じ世代が普通に成人を迎えている昨今に、「いまの20代の若者は、心に闇をもっている」という言説を聞くことが無い。

 知識人たちは、何かと子どもを悪者や「劣ったもの」と見る傾向があるのではないかと、感じる。少年Aひとりから、今の社会の子どもたちみなを推し量ることはできないはずである。けれど、どうも知識人という人々は直に子どもたちと会って、「酒鬼薔薇って、どう思う?」と聞きに行かないようである。

参考文献:

佐藤学著『身体のダイアローグ』(2002年、太郎次郎社)

『無限回廊』WEBサイト

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/koube.htm

2008年春)


退廃文化の向こうに ~早稲田祭に思うこと~

 早稲田祭とは、退廃文化の異名である。本来、文化祭は文化活動を行う場所である。決して、騒音とコスプレとナンパ活動で終わる祭りではない。最高学府で行うのだから、なおさら文化的であるべきだ。けれども早稲田祭2008は、人の多さに驚き、見るべき企画の少なさに驚き、早稲田祭参加者の態度に驚くという、驚いてばかりの祭りであった。

赤いハッピを着た早稲田祭スタッフ。何人かは昨夜から一睡もせず、早稲田祭2日目に臨んでいる。113日の夕方、スタッフは懸命に撤収作業に当たっていた。その横で、たむろした大学生が女子高校生をナンパしているのを見た。その集団により、道が通りにくくなっている。何ともやりきれない思いを感じる。スタッフの方々は、こんな人たちのために苦労する必要があったのだろうか。それでも笑顔で対応しようとするスタッフの姿に脱帽した。

 昨年、一昨年の早稲田祭では、私は講演会企画サークルで動き回っていた。昨年は講演の司会をすることとなり、緊張しながらこの日を迎えた記憶がある。本年は準備の都合上、早稲田祭での企画はできなかった。そのため早稲田祭2008では比較的フリーアリーにキャンパスを回ることができた。

 回ってみて、とにかく疲れが出る。人の多さ、企画のくだらなさ。座って休もうにも、休める空間がない。何かを見て帰るべきであるのに、見るべき企画がほとんどない。別に私はバンドにもコスプレにも、興味はないのだ。アカデミックなもの、「来て良かった」といえるものはないのか? 早稲田祭ではいつも講演会をする側であった分、他の企画のくだらなさに愕然としてしまった。そこで改めて、自分の講演会サークルが早稲田祭に企画を出す意義を感じたのである。〈俺たちが企画をしないと、早稲田祭の文化性が下がってしまう〉と切実に感じた。早稲田の文化性は、自分たちのサークルが少なくとも一翼を担っていたことに気づいたのだった。

 本年は手伝いの形ではあるが、別のサークルの客寄せを行った。教育学部歴史学研究会というサークルだ。《歴史検定》という企画を打った。教室に来てもらい、日本史・世界史のうち、自分にあったレベルの問題を解いてもらう、という至極シンプルな企画である。はじめ、〈100人も来ないだろう〉と思われていた。しかし蓋を開けてみれば、2日間でなんと400人以上が来場していた。入り口には行列ができた。カップルで受験に来た人もいた。受験生も来た。シルバーカーを押して、お婆さんもやってきた。うれしい悲鳴である。退廃文化の広がる中で、ただ問題を解くだけの企画に多くの人がやってきたのだ。「早稲田祭も、まだまだ捨てたものじゃない。アカデミック志向でも、十分企画は持てるのだ」との自覚を強くしたのである。

 早稲田祭についての種々の思いが想起する中で、早稲田祭2008は閉幕した。教育学部歴史学研究会は打ち上げをすることもなく、部室にて現地解散となった。あっさり感が小気味よかった。(了)

2008年秋)


大学訪問記:玉川大学

 早稲田大学はもともとの早稲田村にできた大学だから早稲田大学という。地名→学校名だ。玉川大学はその反対。学校名→地名である。学校が出来てから、その名称が地名となった。だから学校の敷地でなくても、「玉川学園」が地名として使われる。

 大学名以外にも逆のところがある。例えばキャンパスの広さ。散歩できるほどの広い空間であり、自然が多い。あとは付属の小中高が同じ場所にある点だ。早稲田——特に早稲田キャンパスは——狭く、自然と言えば街路樹くらいで、付属・系列校は大学外に存在する。また両校とも教育学部をもっているが、玉川は教員育成の名門、早稲田は【教育学の研究場所】としての学部である。

 本日3月2日、私は小田急線を使った関係上「フラッと」玉川学園前駅に降り立った。そしてこの真逆である大学に足を踏み入れることになった。守衛さんは小学生に挨拶をするほどフレンドリー。その姿に感心し、コソッと大学に入るのでなしに許可を得て入ることにしたのである。

 玉川大学とはそもそもどんな大学であろうか? 玉川学園のWEBには次のように書かれている。

 玉川学園は、1929年(昭和4年)に創立者小原國芳により「全人教育」を第一の教育信条に掲げて開校されました。生徒数全111名、教職員18名によってスタートした学校は、現在K-12Kindergarten to 12th)、大学(文学部・農学部・工学部・経営学部・教育学部・芸術学部・リベラルアーツ学部)・大学院まで約1万人が約59m2の広大なキャンパスに集う総合学園に発展し、幅広い教育活動を展開しています。

 創立以来「全人教育」を教育理念の中心として、人間形成には真・善・美・聖・健・富の6つの価値を調和的に創造することを教育の理想としています。その理想を実現するため12の教育信条 全人教育、個性尊重、自学自律、能率高き教育、学的根拠に立てる教育、自然の尊重、師弟間の温情、労作教育、反対の合一、第二里行者と人生の開拓者、24時間の教育、国際教育を掲げた教育活動を行っています。

http://www.tamagawa.jp/introduction/history/index.html?link_id=his2

 

 足を踏み入れてみて、ここに書かれている内容に、よくも悪くも嘘はないように感じた。創立者たる小原國芳はクリスチャン。小原の著書のエッセンスをおさめた『贈る言葉』(注 海援隊にあらず!)という本にも信仰を根底においたがゆえの言葉が書かれている。わざわざ人間形成の中身に「聖」をおくのは信仰故のものであろう。

 今ではほとんど聞かなくなった「熱い」言葉を伝えているのが玉川大学の教育学部であるようだ。「いい」教員になり、子どもに夢を与えよう、子どもによい教育を与えよう。古き良き教員像を見る思いがする。そのために「理想」の教育たる松下村塾や咸宜園(かんぎえん)を学校内に再現してしまっている。本当に教育に「熱い」学校である。

 玉川大学の本屋。「教育学」コーナーには教員養成や授業運営の仕方をキーワードとする本が多い。早稲田は文字通りの「教育学」に関する本しかない。ただ、水谷修の本は早稲田にも玉川にもあった。

 教育への「熱い」言葉の広まっている玉川大学。早稲田大学の教育学部は教員育成を主目的としない分、「いい教員になろう」「いい教育をしよう」ということをあまり伝えてこなかった。「熱い」ものに惹かれる傾向も私にはあり、「この大学で学んでみたい」という思いを久々にもったのである。

 現在は善の言葉がニヒリスティックに見られる時代となった。「正義」や「善人」という言葉や「人のために」という言葉を真正直に口に出すと恥ずかしさを感じる時代だ。教育学の世界でも、この傾向はあったように思う。教育に関しての「熱い」言葉が語られず、いたずらに脱学校論や近代教育批判が展開される。これ自体には何の問題もないが、あまりにも現代の教育批判に汲々としていると教育が本来もっていた「熱い」側面が軽視されてしまう。教育に無限の可能性や輝きがあったのは「今は昔」のことなのか? 本当にこの状態でいいのか?

 ニーチェは「神は死んだ」と言った。そして「神は死んだままだ」と続けた。誰の本だったか忘れたが、ニーチェのこの一連の言葉から、'神は確かに死んだ。まだ死んだままだ。けれど、この状態はいつまでも続いていいわけでないという解釈をしているものがあった。教育学にも言える。教育における「熱い」言葉は確かに軽視されるようになった(死んだ)。けれど、この状態はいつまでも続いていいのだろうか? そうではないだろう、と。教育学が近代教育批判を躍起になってやりすぎたため、教育が本来もっていた希望や輝きが見えづらくなってしまったのかもしれない。

 

 玉川大学の竹薮に風が通る。3月2日の風は冷たいながらも心地いい。風に揺れた竹が夕陽に輝く。この光景を見ていると、教育への希望があふれてくるように思うのだ。

2009年春)


「にもかかわらず」のボランティア

 ある日のこと。授業が終わり教室をふと見回す。机の上に、誰かの携帯がある。教室にはあなた一人だけだ。このとき、あなたはどうするか?

(1) そのままにしておく。

(2) 学部の事務所にもって行き、「忘れ物です」と伝える。

(3) 中を興味半分に見る。

 先日、私はこの状況に出くわした。授業に行く途中、空き教室に携帯がぽつんとある。授業後に覗くとまだ残っている。その部屋で授業を受けていた人も、確実に視野に入ったはずであるのに、みな携帯をスルーして退出していった。教室の中には私ひとり。時計を見ると、次の授業までもう時間がない。おまけに今日は7限までぶっ通しで授業がある。事務所は19時には閉まってしまう。葛藤が始まった。(3)は論外として、(1)か(2)か。

結果、私は(2)を選んだ。たとえ授業に遅れても、携帯がなくなり、困る人がいるだろうからだ。「勝手に場所を変えたら、かえって見つからなくなる」という人もいるかもしれない。しかし、世の中には(1)してくれる人ばかりではない。時には(3)を選ぶ人がいておかしくないし、場合によっては名簿をどこかの業者に売る輩もいるかもしれない。そう考えて、多少授業に遅れたが事務所に届けたのであった。

 日本におけるボランティア論の先駆に、金子郁容がいる。金子は著書『ボランティア もうひとつの情報社会』において、こう言っている。「『ボランティアとしてのかかわり方』を選択をするということは、(中略)自分自身をひ弱い立場に立たせることを意味する」。ボランティアする者は、ひ弱い立場にある、というのだ。先の例でいえば、確かに授業に遅れ、遅刻扱いされることもある。仮に「携帯を届けにいっていた」と伝えても、遅刻が取り消される保証はない。この決定が、成績に響くこともある。しかし、「にもかかわらず」、リスクを背負ってでも他者のために行動する。これが真のボランティアといえるのではないか。

先に示した引用のあと、金子は次のように書いている。あえて自分を弱い立場に立たせるかわりに、「意外な展開や、不思議な魅力のある関係性がプレゼントされることをボランティア〔する人〕は経験的に知っている」(〔 〕内は藤本)。ここでいう「関係性」とは、他者を思いやれる心であろう。あるいは、相手からの感謝のことであろう。喜ばれるとうれしいから、善意で行動する。誰にも経験があるだろう。

別の例を出そう。あきらかに道に迷っている人がいる。たくさんの荷物を持ち、あたふたしている。自分は授業に遅れそうだ。このとき、あなたはどう反応するか? 授業に遅れそう、でも「にもかかわらず」道を教えられるかどうか。相手からの感謝を期待すること、つまり「意外な展開や、不思議な魅力ある関係性」の「プレゼント」を期待して行動できるか。ボランティアの精神は、「にもかかわらず」動けるか、ということに帰着するのだと思う。

 こちらがまったくの善意で行うのが、一般的なボランティアだ。通常は、感謝されることが多い。が、善意で行ったことはしばしば誤解される。むこうが怒り出すことさえある。席をお年寄りに譲ったとき、「人を年寄り扱いするな」と怒鳴られた、ボランティアに出たとき友人から「点数稼ぎ」といわれた、電車を転がる空き缶を拾ったとき、まわりから変な目で見られた、等など。まったくの善意で行ったことで誤解を受けると、ものすごく身にこたえるものである。私にも経験がある。「何でボランティアなどやったんだろう?」と思ってしまう。金子のいうとおり、ボランティアする者は「ひ弱い立場」に立たされているのだ。

 誤解を受ける。しかし、それにへこたれず、つまり「にもかかわらず」にボランティアの実践を続ける。これが真のボランティアだといえるのではないか。たとえ相手が誤解したとしても、自分の行動自体は善なのである。そこは自信を持っていい。何も動けない人の方が、よっぽど心が貧しいのだ。私はそう考えるようにしている。

 ボランティアの立場はたしかに弱い。しかし、「にもかかわらず」行うのが真のボランティアである。さまざまなつらさを超えてこそ、他者を思いやれる人物になれると感じるからだ。

*金子郁容著『ボランティア もうひとつの情報社会』(岩波新書)1992年、p112より引用。

2007年秋)


ひとつより、ふたつ。

~人生をより豊かにするために~

 大人になると、子ども時代の文化を忘れる。かくれんぼをしたこと、ゲームをしたこと。大人になると、大人文化のみの世界に生きることになる。たとえば飲酒、たとえば喫煙。大人と子どもとの間に、文化の格差がある。

 大人か、子どもか、二者択一。そうではなく、両方の要素を楽しめるほうが人生、より豊かになるのではないか。楽しめるものの幅が広がるのではないか。

 同様に、二者択一ではなく、両方を選ぶほうが、より豊かに生きることのできるケースが多い。たとえば方言と標準語である。標準語だけ、方言だけでは味わうことのできない微妙な違いや雰囲気を、両方知ることで実感することが可能になる。日本語と外国語もそうである。どちらか片方よりも、両方できるほうが幅広いものの見方をすることができる。大学の専門もしかり。専攻は1つより、2つのほうがいい。今の学術界は学際的学問が普及しつつある。1つの専門知のみでなく、2つの専門知。両者の組み合わせでしか、見ることのできない事実があるはずだ。

 ひとつより、ふたつのほうがいい。しかし、両者のバランスを取ることは誠に難しい。時間と体力は無限でないからだ。受験生時代の「勉学と部活の両立」に似ている。どこかで折り合いをつける必要がある。下手をすると両方とも身に付かず、中途半端になってしまう。単にちゃんぽんになってしまう。両者あいまって、価値を止揚させていく。その絶妙な関係性を保つためには何が必要か。それには確固たる哲学が必要だ。場合によっては、哲学というよりも「何のためにそれをするのか」という目的意識でよいのかもしれない。「何のためにするのか」問いかける。そしてその結論をもとに、「絶対に両方やりきるのだ」と決意する。両立には何らかの精神性が必要なのだ。

1つの視点だけでなく、2つの視点のあるほうが豊かにものを見ることができる。また、人生を2倍楽しむことができる。右か左かだけでなく、右も左も。分かつよりも、選択するよりも、統合を目指す生き方のほうが、豊かに生きられるだろう。会社だけ、家庭だけでなく、会社も家庭も。授業だけ、サークルだけでなく、授業もサークルも。ついでにバイトも、ボランティアも。多くのことをやりきったほうが、見方も豊かになる。友人も多様になる。人生を何倍にも楽しむことができる。

ひとつより、ふたつ。二者択一より、統合。根底に精神性。これこそ、人生を充実させるヒントでないか。

2007年秋)


ワセダ生、母校へ帰る

 先日、私は母校である高校へ行く機会があった。受験生の激励のためである。私の母校は大学の系列校であるので、ほぼエスカレーター式に大学へ進学できる。その中にいながらも、「苦労してでも外部の大学に進学したい」という、私のような変わり者受験生のお役に立ちたいと思ったのである。自分が受験生のときも、早稲田や東大に行った先輩の話に奮い立った記憶があり、そのときの恩を返したいと思ったからでもある。

 高校の受験担当の先生に、受験生懇談会の開催の許可をもらうところから計画は始まった。なにしろ、「エスカレーター進学するのが普通」というわが母校において、外部受験生はマイノリティーである。参加人数も限られる。「できれば国公立の方に開催してもらいたい」という高校側の意向もある。「受験生のため、なんとしても開催させてほしい」と陳情した。東大や東工大に行った卒業生にも来てもらえるよう、アポイントメントをとった。早稲田生の発案でありながら、OB参加人数においてワセダ生の数が東大・東工大生より少なかった背景はそこにある。

 実際に母校へいくと、懐かしさに胸がいっぱいになる。かつての自分の教室を、後輩が使っている姿を見ると、時の移り変わりを思い知らされる。集まってくれた受験生の文理の別を聞き、多少移動してもらい、小グループで話をした。その際、集まった人に、「今どんな参考書使っているの」などと質問するなど、一方的に話さないよう気をつけた。うちのグループには早稲田志望の3年生が1人、後は皆12年生だった。

 3年生の後輩は第一文学部を志望していた。物を書く仕事をしたい、という夢を持っていた。マスコミに就職するには、早稲田がいいと聞いたようだ。職を得るに当たって、早稲田OBOGとのつながりが役立つから、ともいっていた。何故早稲田にいきたいのか、とてもはっきりしている子だった。しばし、自分の実感としての「早稲田大学」を語った。「是非早稲田に来てほしい」と伝えた。

「今の時期に何をしていたんですか?」後輩の質問。自分の勉強スタイル・使った問題集・受けた模試等々について、1年前の自分を思い出しながら語る。その中で、今の自分の姿が見えてきた。 

あの頃、私はとにかく勉強に頑張ってきた、今は一体どうなのだろう? 「早稲田にいったら、これをやりたい、あの資格に挑戦したい」と思っていた、では今実際にできているのか? そもそも今の自分は後輩に「勉強がんばれ」と言えるほど、「頑張って」いるのか? 

後輩の受験勉強の中身を聞く。睡眠時間を削りに削り、常に単語集を持ち歩き、なおかつ休日は一日中学んでいるそうだ。受験まで残された時間に、全力を注いでいた。

自分もあんなに一生懸命だった時期があった。後輩同様、あるいはそれ以上の勉学に取り組んでいた。実際私も常時単語集や参考書を持ち歩いていた。休み時間も勉強した。毎朝その日やる勉強メニューをノートに書き出し、課題をやり終わる度消していった。休日は模試か自主学習の時間となった。

夏休みにだらけ、二学期から受験勉強の本格スタートを切った私。「サボると浪人になってしまう」切迫感があった。「9月に受験勉強を始めて受かる受験生は普通いない。いくら努力しても無駄かもしれない」との意識が常にあった。模試が返ってくるたび、自分に負けそうになった。無理して早稲田に行かなくとも、系統大学にいければいいじゃないかと、自己合理化をはかろうともした。その都度、弱い自分に負けてたまるかと決意を新たにした。はっきり言って、もう二度とあんなに追い詰められたくない。

普通に受験勉強するだけでも大変だ。まして私は高校時代、寮生活をしていた。自宅通学者と違い、非勉強時間が大量発生する環境。自分の願いが反映されないことも多い。自分で言うのもなんだが、本当に大変である。7時の門限に遅れれば風呂に入れず、もう30分遅れると夕食がなくなる。掃除・洗濯は自分でやり、寮の中の人間関係も考えていかなければならない。内部進学者や後輩が騒ぐことにも耐える必要がある。予備校には通う時間がない。一日2回集会があり、半強制参加。夜11時には点呼・12時には消灯だ。自立生活など、学校では学べないことが学べる半面、本業である学問がおろそかになりがちな場所である。冷静に考えて、受験勉強をするにはふさわしくない場所だ。

 寮の休日。机に向かって過去問を解く。寮内放送「いまから中庭バスケを行います。参加を希望される方は集まってください。」目前の問題についての思考がとぶ。頭の中でボールを投げている自分がいる。集中しなきゃとシャープペンを走らせていると、外から歓声が聞こえてくる。耳栓に手を伸ばし、無視を決め込む。ようやく「のって」きた頃、室員が入ってくる。戸を開ける音にまた気が散る。そうこうするうちに制限時間のタイマーが鳴る。誰にこのイライラを伝えればいいのだろう? 

 何もしなくても内部進学で大学にいける友人を、うらやましいと思いながら勉強していた。妬みだったかもしれない。内部進学者は「勉強よりも大切なことがある」風潮で生活している。それが当然とも考えている。そう接してくる。冗談じゃない。

「何で他大学に行くんだよ? 学部がちゃんと大学にあるだろう?」ある内部進学者の弁。寮でも学校でもマイノリティだ。同じ受験生でも、ほとんどが国公立志望者。私立生は肩身が狭い。何度も「どうして、早稲田に行きたいんだろう?」「どうして、僕は受験なんかやってるんだろう?」と自分に問うた。答えを出さないまま勉強していることも多かった。精神的にもキツイ環境だった。

1年前はつらかった。しかし精神的に成長できたのはあの時だった。不可能に思えた早稲田大学入学も、自分の可能性を信じることで実現することができた。

気づけば、私は現状に流され、だらだらと時を過ごしていた。淡々と大学にいき、友人に会い、それで一日が終わる。つらさがない代わりに、達成感もない。適当に授業に出て、適当に生活する。特に勉学に励むでもなく、変化に乏しい生活を過ごす。自分は卒業のころから、少しでも成長できたのか? 自分を反省した。そして、「今からまた、決意を新たに、自分の戦いに挑んでいこう!」と決意しなおしていた。1年前にあの戦いができたのだから、がんばればそれと同じ戦いを今もできるはずだ。そう感じた。知らない間に、受験生懇談会は、自分にもプラスになっていた。

 どうして、受験生懇談会が自分にプラスになったのだろうか? それは「原点」に戻ることができたからだと思う。原点に戻れば、自分がかつて誓った決意を思い起こすことができる。自分にとっての原点は母校であった。またそこでやっていた受験勉強であった。母校に帰り、「卒業後、これをやる」「大学でこれをやる」と自分がかつてここで決意をしていたことに、気づいたのだ。

やる気がなくなり、自分が何をしたいのかわからなくなったとき、「原点」に帰ることの意義は大きい。どの方向を指すか定まっていなかったベクトルが、原点を基点に再び引かれる。ベクトルの指す方向・夢を目指し、着実に今できる戦いをすべきなのだと実感できる。

 思えば、過去の偉人たちは「原点」を持っていた。司馬遷は悔しさを「原点」とした。宮刑の屈辱を原点に史記を書き上げたのだ。この努力は後世の歴史書の模範となっている。こうしてみると、深い決意を原点とし、一生の土台にできる人が大成できるのではないだろうかと思う。原点のある人は、そうでない人よりも精神的に強くなれるのだなあと感じる。

 懇談会終了後、外に出る。母校の校庭に差し込む夕日は、一段と美しかった。

2006年秋)


拝啓 寺山修司様

 「言葉の魔術師」たるあなたは生前、非常に多くの作品を遺されましたね。私は映画監督としてのあなたの姿しか、目にしてはおりません。『書を捨てよ町へ出よう』も『田園に死す』も、遺作『さらば箱船』も面白く見させていただきました。個人的な話ですが『町へ出よう』は『街』とされた方が雰囲気が出る気がします。『箱船』、今では祖父役が与えられる山崎努の若かりし頃の迫力にシビれあがりました。

 「見世物の復権」を訴えられたあなたの演劇は、厳密には再度お目にはかかれません。あなたが演出する演劇は、もはやこの世に存在しないからです。演劇を録画しても、演劇の数%のみを今に伝えるのみでしょう。なんといっても、見る場所によって見え方の違う演劇をあなたが作ろうとしたのですから。

 私はあなたに憧れます。何の衒いもなく「アジテーター」であることを誇れるのですから。

 私は脱学校論を専門にしていきたいと考える一教育学徒です。仮に事実として現存の学校の醜さ・非人間性を訴えることをしたとしましょう。教育学者であればそれで済みます。ですが、私の文章を読んだ中高生が「学校は欺瞞の固まりだ」と考え、学校をボイコットする。その結果、この中高生が将来的に「反抗少年」としてレッテルが貼られ、人生を棒に振ってしまった場合、私の文章作成行為は正しいと言えるのでしょうか。あなたは「正しい」と言うかもしれません。ですが、私はこの中高生の将来受けるであろうデメリットを考えると、「何も書かない方がいいのではないか」と思ってしまうのです。教育学者ではあっても、真理より子どもへの影響を考えてしまうのです。

 あなたは映画のなかで何度も母を「殺」してきました。捨ててきました。けれど生涯母からは逃れることが出来ませんでした。あなたはハッキリとご自分の矛盾に気づいておられました。それゆえに私たちに「寺山の言うことを100%は信じないほうがいい」と無言のうちに語っておられたのでした。ですが世の中はそんな人ばかりではありません。あなたの言を真に受け、行動してしまった若者がいるのです。少なくとも、私の回りには1人はいました。あなたを乗り越えるべき父親像とするのであれば何の問題もありません。「昔はこんなことがあった」と流してしまえるからです。問題なのは、皆が乗り越えられる訳ではないということです。あなたを信用した結果、あなたを乗り越えること(精神的意味での「父親殺し」)が出来なかった者はあなたに人生を狂わされたと言わざるを得ないのではないのでしょうか。

 あなたは食うために文章を書いた人間ではありません。では何のために文章を書いてこられたのですか。人を不幸にする可能性も考慮して、文字を原稿用紙に書き付けられたのですか。

 永六輔の『芸人』にはある役者の言葉が出てきます。'江戸時代の役者の演技を見て、世をはかなんで自殺した若い娘がいた。私も、一人くらいはそうやって殺してみたい’と。あなたの創作行為はこのような物なのではないかと推察するのです。

 「死ぬのはいつも他人ばかり」。

 あなたはよく口にされました。現に亡くなってみて、いかがですか。あなたは舞台の役者に話させました。「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって他人なんです」(『地獄編』)と。

 死は他人の認識のなかにのみ発生します。「死」を認識する自己は存在しないからです。限りなく死に近い状況でのみ「ああ、もうすぐ死ぬんだ」と思うことはあっても、本当に心肺停止をする際には私の認識は無くなっているからです。

 ということは、このことは生命の不死を説明することになるのではないでしょうか。私が「死ぬ」瞬間、別の場所に私の生命が連続して続いていく。あなたの言を聞き、そう思うのです。

 いつの頃からか、本を読んでいて「私はこの著者であった時があるのじゃないだろうか」と、ふと考えるようになりました。説明が不足してすみません。自分の前世やその前に書いた本を、自分自身が再び読んでいることがある気がするのです。私の妄想が実際におこっていたとすればさぞ愉快ですね。前世の自分の思索を今世の私が再び引き継ぐことになるのですから。前世に書いた本を私が「この著者の言うことは間違いだ」と指摘するとき、さらに面白くなります。いったい、私という生命は何なんだ、と思うからです。

 あなたは一体、誰として(あるいは何として)いま今世におられるのですか? それとも生命は一期限りのものなのですか? 教えてください、「言葉の魔術師」様。

『地獄編』からの引用は

http://homepage2.nifty.com/highmoon/kanrinin/meigen/ijin2.htm#maより。

2009年冬2月)


第2章

『高校生と語るポストモダン』


高校生と語るポストモダン

~近代と教育と構造主義を語る~

 私は早稲田大学教育学部の学生である。本業としての教育学の研鑽とともに、ボランティアとして母校の高校によく行く。大体、週1回は。高校生の悩みを聞いたり、勉強を教えたりするためである。ふざけ話に花が咲くこともあれば、1対1の真剣な対話になることもある。高校生と話す方が、早稲田生と話すよりためになる。そんな時もある。

 あるとき、自分が書籍や友人との会話・授業などで学んできたポストモダン思想を、高校1年生のH君に語った。彼は私の話を熱心に聞いてくれ、「へー、こんな考え方があるんですか!」と驚嘆していた。この本はこの際の対話を文章化し、再構成したものである。

 よく考えれば、大学受験の「国語」ではフーコーやデリダなどの思想家がざらに登場する。けれど高校の授業ではポストモダン思想について何の説明もなかった。かくいう私も受験生の頃は訳も分からず問題を解いていた気がする。ポストモダン思想を高校時代に学んでいたら、受験「現代文」ももっと解けていたことだろう。この本の執筆動機のひとつには高校生に分かりやすくポストモダン思想を伝えたい、ということがある。

 高校の授業は20世紀以前の科学観を学ぶところだ。少なくとも、一昔前の科学が教科書に載っている。現代文も然りである。

 私の大学での専門はオルタナティブスクールの研究だ。オルタナティブスクールとは、近代公教育制度のアンチテーゼの発想である。近代の持つ問題点を乗り越えようと闘い続けている教育となっている。これを学ぶにつれて、「高校時代に知っていればよかったのにな」と思うようになった。近代教育には「国民育成」の発想がつきまとう。無理矢理に子どもに「日本人」意識を芽生えさせる教育。それゆえ子どもの意思は問題にされない。私は高校までの学校での学習のなかで常に気持ち悪さを感じてきた。ハッキリ自覚するようになるのは中学からだ。ニュースや読書によって知っていた情報を、授業の中ではさも知らないかのように振る舞わなければならない。特に高校からだが、教員の話と私のすでに知っていた知識とが食い違い、「どっちが正しいんだろうか」と迷うようになってきた。〈子どもは何も知らない白紙のような存在だ。だからこそ全てを教えなければならない〉というテーゼが存在しているかのようだ。子どもに無理矢理に多くを教え込む教育を、パウロ=フレイレは「銀行型教育」と批判する。預金者たる教員が銀行である生徒に、知識という貨幣を預金していく。銀行はそのお金を活用できないまま歳を取っていく(本当の銀行ならば預金を貸し出し利益を得るのだけれど、「銀行型教育」の銀行はただ蓄えることしか出来ない)。だんだんと「どうせ教えてもらえるのなら、予習しなくてもいいや」と思うようになってくる。教えてもらうのを待つようになってくる。こうして近代教育は受け身の人間を作り出すのに成功したのだ。私はこの〈教えてもらうのを待つ〉姿勢を崩すのに、大学1年目の大半を使ってしまった。

 この本を書くことで、私は私の大学までの学校生活の'清算をしたいと思っている。学校生活のなかで感じた学校文化の気持ち悪さ・居心地の悪さを再確認したいのだ。本文にもあるが、学校制度は人類史から見ればほんの最近にできた代物である。まだまだ試行錯誤段階である。教育学者を目指すものとして、まだ学校生活を終えて早い間に、自分が感じた「学校の気持ち悪さ」を書き残しておきたい。

 この本を読まれる高校生の方。もしあなたが今通っている学校に居心地の悪さを感じていたとしても、それはある意味当然のことなのです。「学校なんて、そんなものだ」と諦めておくのがよいかと存じます。学校は完全ではないのです。もし気持ちの悪さを抱いているのでしたら、それはあなたに問題があるのではなく、学校とそれを支えている近代思想に問題があるのです。居心地が悪かったとしても決して中退することなく、しなやかに・したたかに学校生活を終えていただくことを念願しております。

目次

近代学校はいつできたのか?

近代において、土地所有制度は、いかに変わったか。

近代教育観の見直し。

フリースクールとは?

偏差値文化の日本。

環境問題の、本当の解決法とは?

対話の不可思議さ。

一流に触れよ!

参考文献

あとがき


近代学校はいつできたのか?

 A君は早稲田大学 教育学部の3年生。著者である私の分身である。一見博識なようだが、たまに繰り出すギャグの寒さは有名である。対するB君は「序」のH君の分身でもある。高校1年生だ。A君がB君の元にやってくるところから物語は始まる。

A:ちは、B君。元気?

B:あ、先輩。はい、元気ですよ。

A:お、勉強中か。どう? 進んでる?

B:うーん、まずまずですね。受験があるから仕方なくやっているんですけど。

A:勉強は大変だよね。「強いて勉める」って書くくらいだからね。無理にさせる、っていう通り、楽しそうな響きのない言葉だからね。

B:マイナスばっかりの言葉ですね。

A:だから勉強が楽しいはずはないんだよ。だって無理矢理にやっているんだもの。だから僕は意識的に「学び」という言葉を使ってるよ。

 「さあ勉強しよう」ではなく、「さあ学ぼう」の方が軽い感じがしないかな?

B:確かにそんな気がします。Aさんの「学び」って具体的にはどんな意味なんですか。

A:「学び」というのは意識的に自分から知っていくことだね。

 辞書には「(1)まなぶこと。学問。(2)まね。まねごと」と書いてあるよ(『大辞林』)。回りや本を見て、それを真似ていく。その姿から出た言葉だね。

B:「強いて勉める」勉強と違って、「学び」は自分から真似るところから始まるんですね。

 学校では「勉強しよう」とは言っても、「学びをしよう」とは言いませんね。

A:「学び」自体は、きっと人類が始まったころからあっただろうね。赤ちゃんって、まわりの大人の話を聞くなかで、「ダーダ」とか言ってまねしていくよね。そして段々ちゃんとした言葉がはなせるようになってくる。少しずつ、ゆっくりと修得していくイメージだね。

 「学び」と違って「勉強」は集中的に学習するというイメージになるね。学校や塾では「真似をしていこう」とは言わないしね。だいたい、赤ちゃんに「勉強しよう」とは言わないね。

B:そういえばそうですね。「一生懸命、勉強しよう」などと僕もよくいいます。

A:ところで学校って存在は、昔はなかったんだ。だからB君がこうやって学んでいるのは人類史のほんのひとときにすぎないんだよ。

B:え、本当ですか? いったいいつ、学校ができたんですか?

A:日本においては明治の近代化の途中だ。日本史で明治維新ってやったでしょ? 

B:日本史選択でないので、やってないです。

A:じゃ、中学の記憶を思い出して。明治維新の途中の1872年(明治5年)の《学制》っていう法律により、日本では学校を作ろうとしたんだ。きちんと今みたいに義務教育制度が確立したのは1900年の《小学校令》という法律が出たときである、と言われているけどね(安彦ほか2004)。

BAさん、すごいですね。よくそんなこと知ってますね。

A:まあ、教育学専修だからね(意気高々)。

 ともあれ、《小学校令》によって義務教育制度はひとまず成立する。

B:中学校は?

A:当時は小学校のみが義務教育の対象だったんだわ。そしてしばらくは4年間だけが義務教育だった。1907年に6年間になるんだけどね。

 こうして、近代を支える義務教育制度が成立する。

B:義務教育って、単に学校へ皆が行くだけじゃないんですか? 「近代を支える」って大げさじゃないですか。

A:それがちょっと違うんだ。近代において教育というものは、国家の権力の現れなんだよ。明治政府は近代学校を通じて「日本人」を作り出そうとしたんだ。

B:えっ、じゃ明治時代までは「日本人」って概念がなかったの?

A:そうなんだよ。さっき「概念」っていっていたけど、まさにそのとおり。「日本人」という抽象的な存在は近代になってできたんだ。江戸時代には「日本人」はいなかった。強いて言うなら坂本龍馬や勝海舟くらいかな。

 日本史の教科書だと、確信犯的にはじめから「日本」や「日本人」という概念が存在していたように書いている。でも本当は違うんだ。

 ところでB君、出身はどこだっけ?

B:神奈川です。

A:昔は神奈川でなく、相模の国とよんでいた。

B:レストランにもそんな名前のがありますね。

A:うん、そうだね。

 相模の国。これはつまり「国」なんだよ。明治時代までは、全国的な国家というものはなかったんだ。あるのはそれぞれに王様がいるいくつもの「国」だけ。藩じゃないよ。

B:でも江戸時代には幕府の将軍がいましたよ。

A:当時は王様である大名の上に、さらに権力者がいたという感じなんだ。日本だとあとは天皇もいるし。

 こんな感じに、中世はバラバラな時代だったんだ。

 あ、中世って知ってる?

B:実はあんまり・・・(笑)。

A:高校じゃ、しっかり中世とかの区分を教えないから、歴史がわからないんだよね。中世っていうのは、日本だと鎌倉時代から江戸時代まで。鎌倉から室町までを中世とし、安土桃山時代から江戸時代を近世ということもあるよ。

 中世は封建制の時代なんだ。中学校の歴史で鎌倉幕府の「御恩と奉公」って習ったじゃない。これは次のようなシステムなんだ。まず各地の実力者である武士が、鎌倉幕府に忠誠を誓う。何かあったときや幕府に呼ばれたとき、すぐに参上する。「いざ鎌倉」ってやつだね。こうやって幕府に忠誠を示すんだ。「奉公」という。

 「奉公」する代わりに、幕府から自分の支配している土地の支配権を認めてもらう。また、功績があれば幕府からご褒美として新たに別の土地の支配権を受け取る。これが「御恩」。言ってしまえば、幕府が一応日本全体を支配しているけれど、実際のところ支配者である武士が各地にたくさん存在しているんだ。  

 日本全体がバラバラな時代。それが中世なんだよ(安藤1994)。

B:うーん、難しいけど何となくわかります。

A:何の話だっけ? そう公教育の話だ。明治以前は相模の国とかがあって、日本列島はバラバラだったんだ。そこでは方言が普通にしゃべられていた。いまよりもずっとキツい方言がね。いまは標準語というものがあるけど、明治時代まで統一的な日本語はなかったんだ。

B:へー。じゃ、いつ日本語ができたんです?

A:これも近代に入ってからだ。ここでは近代の開始を明治維新ということにしておくよ。

 皆が方言をしゃべると、日本国民としての統一感がなくなる。同じ「日本人」なのに言ってることが理解できなかったら困るからね。だから日本の標準語を作った。東京の山の手あたりではなされていた方言を元にしてね。面白いことに、標準語は東京から遠く離れた山口弁の影響も受けているんだ。当時は長州藩出身の政治家・役人が明治政府の要職を占めていた。伊藤博文とか長州、つまり今の山口出身だね。そのために山口弁の影響を多く受けたらしい。

 で、新しく作った標準語をどうやって徹底させるか? それを行ったのが公教育なんだ。公教育の中には「国語」や「歴史」の時間が設けられた。それにより日本語をしゃべり、日本の歴史を学び、「日本人」という意識を持った「日本国民」が形成されていくわけだ。

 この標準語政策が特に厳しく行われたのが、B君が修学旅行に行く沖縄だ。

B:僕らの代から、東北になるらしいですよ。

A:えっ、マジで? それは寂しいな。何で変えちゃうんだろう?

 ・・・まっ、とにかく沖縄では学校で方言をしゃべると、「方言札」というのを首からかけさせられ、厳しい罰をうけたらしい。まだ子どもなのに、ね。

B:ひどいことをするもんですね。

A:近代の負の側面の一つだろうね。ともあれ近代は統一を重視する。江戸時代までみたいにバラバラなのを嫌うんだ。

近代において、土地所有制度は、いかに変わったか。

A:近代では土地所有制度も変わった。土地は、地主だけの物となったんだ。これ、当たり前じゃないんだよ。

 中世までは〈誰でも利用してOK〉の、農村の入会地(いりあいち)という土地があった。いわば共有地だね。この入会地も、「誰それさんの土地」や「国有地」などに変わった。

 中学校で地租改正ってやったでしょ? 地券(ちけん)というものを発行し、その地券をもっている人が土地所有者として、年に土地の値段の2.5%を政府に納税するっていう制度。この地租改正により、日本のあらゆる土地の持ち主が明確になった。

 近代までは、土地をもっていても他人に奪われる可能性があった。だから貴族・皇族・寺社・武士など有力者に「この土地の支配権をあげます」と土地を寄進した。有力者の方は「ありがとう。収入の一部をいただく代わりに、あなたにその土地を管理してもらいましょう」といって、保護をするんだ。ややこしいのは、この次。寄進をしてもらった有力者といえども、絶対的な力を持っている訳でない。だからその有力者は自分よりエラい有力者に、さらに土地を寄進する。すると、どうなるか?

 表面的には土地のすぐそばに住む武士が、土地を支配しているように見える。でも実際の持ち主はその武士が土地を寄進した有力者や、その有力者がさらに寄進した相手である。あー、ややこしい。近代に入って、このごちゃごちゃした土地制度を解消するために、「この地券をもっている人が本当の支配者よ」ということにしたんだ(安藤1994)。

 ・・・「チケン」か。危ないバイトみたいだ。

B:何の話ですか?

A:いやいや、こっちの話。大学に入ればきっとわかるよ。

 さて。「日本」とか「日本人」とかは抽象的な物だ、ということは話したね。そしてこの「日本」「日本人」っていう概念は近代において出来上がった、と。これ以外にも、近代ではいろいろなものが新たに成立した。その一つが「国家」であり、公教育なんだよ。

B:そうなんですか。勉強になります。

A:だから近代において成立した物は、絶対的な存在ではないんだ。僕らは「もともとあったんだ」と思ってるけどね。フーコーも言ったけど、人間は自分の見ている物は「もともとあったもの」であり、自分が住んでいる社会は、昔からずっと「いまみたい」だったのだろうと勝手に思い込んでいるだけなんだよ(内田 2002)。

近代教育観の見直し。

A:今の世の中を見ると、学校制度って言うものが、さも〈昔からあった〉ように思える。けれど、学校制度は近代までは存在していなかったんだ。

B:寺子屋は?

A:あれは余裕のある人だけがいったんだ。多くの子どもたちが寺子屋に行った地域で8割、ほとんど行っていないところでは2割も通っていないんだ。《皆が学校に行く》という制度は近代になってからできたんだ。だいたいね、寺子屋は民間経営なんだ。幕府が意図して設立した訳ではないんだよ(安彦ほか2004)。

 寺子屋の数がすごいんだわ。江戸時代、総人口は四千万人に満たなかったのに全国には一万六千の寺子屋があったんだ(谷沢1995)。いま日本には小学校が約二万二千校あることを考えても、驚異的な数だね。

B:子ども全員が言った訳じゃないのに、本当にたくさんあるんですね。

A:学校はよく見てみると、非常に近代的な物なんだ。否定的な意味でね。フーコーっていう学者がいるんだけど、知ってる?

B:はい、《フーコーの振り子》ですね。

A:そのフーコーは科学者のレオン=フーコー。ここではミシェル=フーコーを指すよ。フーコーはフランスの哲学者。代表作に『狂気の歴史』がある。

 フーコーは、学校はあるものをモデルにして作られたといっているんだけど、そのモデルって何だと思う?

B:うーん、寺子屋とか?

A:答えは監獄。

B:え、牢屋ですか?

A:そう、そうなんだよ。監獄では看守が受刑者を見張るシステムができている。

 学校には怪談話があるでしょ? トイレの花子さんとか。

B:小学校にありました。音楽室のベートーヴェン像が笑うとかでしたっけ。

A:学校という、子どもが生活する場所において怪談が語られること自体、学校が過ごしやすい場所でない象徴なんじゃないかな? 学校が非人間的な物である証拠かもしれない。だいたい、学校制度は完成された制度じゃなく、多くの不備を抱えているからこそ常に何らかの教育問題が騒がれているんだよ(田中 2003)。

 ある人がこんなことを言っていた。「教育こそ問題なのだ。教育の問題ではないのだ」(林1989)と。これを学校って言い換えると、実に的確な指摘になる。

 B君は学校を休むと「悪いことをしたな」と思うでしょ?

B:はい、思いますね。

A:それも近代特有な物かもね。この弊害は結構大きい。

 不登校の子っているよね。不登校の子は、結構苦しい思いをしている。それはその子自身が「学校には何があっても行かなければならない」と思っているからなんだ。いま学校に通っている人たちの中にも、同じ思いの人がいるんじゃないかな。「学校は何があっても行くべきだ、たとえいじめがあったとしても」と。

 この近代特有の思い込みのせいで、つらい思いをしている人がいる。本当は教育が子どもの幸福のためにならなければいけないはずなのに、残念なんだわ。

フリースクールとは?

A:B君はフリースクールって知ってる?

B:たしか不登校の子たちが通う学校では?

A:そうそう。

 僕の尊敬する人に奥地圭子っていう人がいるんだ。この人は22年間、小学校の教員だった。あるとき、奥地さんの息子さんが学校に行けなくなる。《どうしたらいいんだろう》と途方に暮れたんだけど、それがきっかけで不登校の子どものための学び場を作ろうと考えられたんだ。海外にあったフリースクールを元に〈東京シューレ〉っていうフリースクールを作ったんだ(奥地2005)。

 近代公教育制度は、たしかに日本の近代化に役立った。近代公教育が多くの子どもたちに有効であったからこそ、今日の日本の繁栄があるんだろうとは思う。けれど制度を作るとそこから外れる人が必ず出てくる。不登校の子どもは絶対存在するんだ。

 子どもの個性は一人ひとり違う。同じ場所に行っても、楽しいと思うかそうでないかは人によって違う。ディズニーランドも「嫌いだ」って言う人、いるでしょ?

B:そんな人、みたことないよ。

A:おかしいな。俺の友人が変なのか?

 えっと、子どもの個性は一人ひとり異なる。学校があわない、っていう子は必ずいるんだ。でもそういう子たちを無理に学校に行かせようとしてきたのが今日の教育制度だ。本当はそういう子たちが行きやすい学校や教育機関を作っていくべきじゃないの? 靴のサイズが合わないとき、足を小さくしようとしないよね、靴を選び直すよね?

B:そうですね。

A:奥地圭子さんは不登校の子のための学校を作った。そこがすごいね。

B:フリースクールだとどういう授業を行っているんです?

A:厳密にいえば、フリースクールによって違う、としかいえないかな。〈東京シューレ〉のケースで話すよ。東京シューレでは、子どもたちは来たいときにきて、好きなときに帰ることができる。そして、子どもたちは思い思いに時間を過ごす。勉強したければスタッフに教わる事もできるし、自分だけで学ぶ事もできる。勉強したくなければ、遊んでいても、何をしていてもいい。そんな所だった。

 僕が見学に行ったときは、問題集をやっている子の横で漫画を読んでる子がいた。キッチンではスタッフとともにクッキーを焼いている子もいたし、4人くらいでボンバーマン(テレビゲーム)をやっていたわ。外でバドミントンをしている子もいたしね。

 皆、不登校だったとは思えないくらい生き生きとしている。もし東京シューレがなければ、ずっと暗い思いにうち沈んでいたのかもしれない。

B:フリースクールって、重要な意味を持ってるんですね。

 でもフリースクールって民間が運営してるんでしょ? 月謝とか、かかるんじゃないんですか。

A:うん、金銭の問題はどうしようもない。実際、東京シューレでは4万円くらいかかるみたい。だからフリースクールに金銭的理由で通えない子どもはいるだろうね。ある程度、親に年収がないと結構きつい。矛盾しているようだけど、フリースクールに行けるのはある程度のエリート層であるといえるかもしれない。

 ただ、いま日本には奨学金制度があるね。フリースクールに通っている子にも支給されるようになったらもっと通いやすくなるだろうね。

B:もっと活動に支援が与えられるといいですね。

A:フリースクールの運営にはお金がかかるんだ。場所代・設備費・光熱費とかだね。ここは必ず必要な費用だから、自然とスタッフの給料が減らされることになる。まあ、ボランティアの人にはあんまり関係がないけど。

 フリースクールのスタッフの雇用条件は結構悪いところがあるよ。最低賃金を割ってしまっているところもざらにある。フリースクールをやる人って、「子どものために何かしたい」という人がけっこういるみたいで、賃金がほとんどなくても善意で行っている。

 「NO30歳限界説」というものもあるね。

B:何ですか? それは。

A:ボランティアみたいな活動ができる限界は30歳、っていう説。

 NPOの運営には当然お金が必要だね。建物を借りたり、道具を買ったりする。大きな組織では会議の運営や報告書作成のためにスタッフを雇ってこなければならない。でも元々こういう組織は儲からない。人びとの「なんとかしたい」という思いによって行っているから。

 若いうちは給料が少ない、あるいはゼロでもアルバイトなどして生きていくことができる。でも結婚を考えたり、「アルバイトでなく、もっと安定のある仕事に就きたい」と思ってくる時がある。それが30歳前後。そのためにNPO30歳限界説がある。NPOだけでは食っていけなくなるんだ。

偏差値文化の日本。

A:ところで、B君はどこの大学目指してるの?

B:一橋です。

A:あ、俺の落ちたところだ(笑)。がんばってね。

 日本だとよく、偏差値の話が出るね。「オレ、偏差値低くて」とかよく聞くでしょ? 日本人はこれを一生背負っていくみたいだよ。別に学歴社会は日本だけじゃなく、アメリカとかのほうがひどいけどね。

 日本だと、学校ごとに序列があるじゃん。この学歴とか偏差値で人が分断されるのも近代特有だね。たとえば、中学の友人に「俺、早稲田行ってるんだ」というとき、僕自身優越感を感じてしまう。これ、本当は捨て去らなければならない感覚なんだけどね。僕も近代に毒されているわ(上野2002)。

 この近代の限界が、いまいろんなところに現れている。学級崩壊とかそうだね。30年ほど前はこんなことはなかった。学校で学ぶのが当たり前だと思われていたからね。でもいまはこの〈当たり前〉っていう感覚が崩れかけているんだ。近代公教育制度の限界を感じるわ。

近代の発想の限界。

A:近代の限界は、環境問題がその最たる物なんだわ。で、近代的発想っていうのは、フランスの哲学者デカルトからきている。デカルトのいった有名な言葉があったね。

B:「我思う、ゆえに我あり」ですか。

A:そう、それ。コギト・エルゴ・スム。

 「世の中の物は、本当に存在するのか? ひょっとすると、俺の妄想にすぎないのではないか?」。デカルトはこの疑問を長い間持ち続けた。そしてあちこち旅をする。あるとき、突然浮かんだのがさっきの言葉だ。

 「すべては疑わしい。実際には存在しないのかもしれぬ。でも俺という存在、つまり〈考えている〉実態がある。これだけは確かだ」と気づくわけだね。一切の存在を疑うという行為をしている、自分自身の理性の存在に気づいたんだ(青木1997)。

B:一つのドラマですね。

A:このデカルトの発見は、科学文明に絶大な影響を与えた。「我思う、ゆえに我あり」というとき、自分という存在は観察する物から離れた存在となる。よく客観的、とかいうでしょ? この客観的っていう言葉は、デカルトの発見を元に成立している。

 観察する自分がいる。そして観察される物がある。(鉛筆を持つ)ここに鉛筆があるね。客観的に見るとは、この鉛筆を自らの思いを一切入れず、そのまま見つめることになる。いったい、この鉛筆は何からできているのか。なぜこのような形状なのか。こんな感じでひたすら観察する。

 このとき、「これを使うと勉強がはかどりそうだ」とか考えてはいけない。自分の思いを押し殺して、「客観的」に冷静に見つめるんだ。自分の解釈は入ってはならない。

 とまあ、デカルト以来、人類はこんな観察態度をすべてのものに対して、向けるようになったんだ。

B:へー、「客観的」ってよく言ってますけど、そんな意味合いがあったんですか。

A:この観察の仕方により、人類の科学は飛躍的に進む。それまで中世の神話や迷信によって遮られていた世界の解釈が、可能になったんだ。

 デカルト的に物をみることにより、水という物質の性質が観察され、蒸気機関が発明される。産業革命だ。蒸気機関に必要なのは水もそうだけど、水を沸騰させる燃料。当時は石炭を使った。

B:ああ、中学で学びました。スチーブンソンとかですね。

A:電気という目に見えない物すら、人間は観察できるようになった。

 このデカルト的な見方が、今の社会をもたらした。デカルト的な見方は、自分と対象をたて分ける。そして相手を徹底的に観察する。この考え方が、自然と人間という二項対立を成立させた。ここに、キリスト教の一説が反映される。

 こんな一節だ。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。(中略)あなたたちは産めよ、増えよ。地に群がり、地に増えよ」

(『旧約聖書』創世記 第9章)

 ここを解釈し、「神は地上の物は人間のために活用していいといっているんだ」と考えた。そのために人間とは無関係である「自然」の破壊が進んでいった。だって、人間は何をやってもいい、人間こそがすべてだ、といっているんだからね。

B:聖書の一節とデカルトの発想が結びついたんですか。この2つにより自然破壊が進んでいくんですね。

 でも、不思議ですね。世界中に近代が広がっているのに、キリスト教の影響をうけて近代が成立しているなんて。

A:それは簡単だよ。近代はヨーロッパで生まれた発想なんだから。そしてヨーロッパは、近代の初期において世界をリードした。産業革命、植民地の建設などはすべてヨーロッパ発なんだ。で、ヨーロッパはキリスト教の影響が強い。だから近代は非常にキリスト教の影響を受けた時代であると言えるんだ(山本 1992)。

 さて、無反応な自然に対し、人間は徹底的に手を加え、活用していく。結果として地球上では砂漠化、温暖化、資源の欠乏などの深刻な被害が出始めている。

B:最近、ほんとうによく騒がれてますね。

環境問題の、本当の解決法とは?

A:環境問題の難しいところは、近代的発想法をしている限り、絶対に解決できないからなんだ。だって、近代は自然と人間をたて分けたデカルトの発想に縛られた時代でしょ? この考え方を人間中心主義という。

 環境問題の解決のため、「資源を大事にしよう」とか「ありがたさを感じよう」とかよく言われているよね。「倹約しよう」という考え方だ。でも、これじゃ問題は解決しないんだ。「資源を大事に」と言っている人は、仮にみんなが倹約して経済の発展が落ち込んで生活が不便になっても、不満を言わないんだろうか。

B:言ってしまいそうですね。

A:倹約思想は、結局人間中心の発想だ。いままで人間がやりたい放題にやってきたから、それを反省しようというレベルの考え。でも事はそんなに簡単じゃない。

 デカルト的な考えと、キリスト教の考えが融合して環境破壊が起きた。この環境破壊が「近代」っていう発想によって生じた物であるのだから、近代を乗り越える発想がなければ、根本的な解決はできない。人間中心主義を乗り越える新たな思想が必要だ(長尾2001)。

B:そんな思想、あるんでしょうか。

A:ポストモダンっていうやつさ。 

B:何ですか、それ。

A:ポストっていっても、街角にある赤い物じゃない。

B:いや、さすがにわかりますよ。

A:失礼、ギャグのつもりだったんだけど。寒いね、しかし。

 「ポスト」とは「それ以後」とか「その次」とか言う意味。つまりポストモダンとは「近代を超えたもの」という意味だ。このポストモダンって言葉やポストモダンの考え方は、現代文の入試評論に頻出ワードだから知っていると得するよ。

B:わー、じゃ集中して聞こっと。

A:環境問題を解決するには、一人ひとりが近代の人間中心主義を乗り越え、ポストモダンの発想を持たなければならないんじゃないか、と僕は考えているんだ。

B:それはどんな内容なんですか?

A:近代は、人間のエゴが無秩序にあらわれた時代だ。自然を意のままに操ろうとした。この状態の解決のためには、自己の事だけでなく、共同体意識を持つ必要がある。そして共同体のために自らの欲望を制御する必要があるんだ。

 最近、「持続可能な発展」っていうことばがよく語られるようになってきた。聞いた事ある?

B:はい、現社でやりました。

A:いまあちこちで語られているからね。

 さっき、《倹約しよう、という人は経済が落ち込んだとき不満を言うだろう》という話をしたね。これを乗り越えるのが「持続可能な発展」だ。ESDともいう。

 経済成長と地球環境の保全を両立させる道を探そう、という概念だ。地球環境を安定した状態に保ちつつ、開発を進めていく道を探っていくわけだね。そのためにいまの僕たちの産業構造や意識の構造を見直していかないといけない。そこが難しい。

 開発しなければ、経済成長は見込めない。でも開発すれば地球規模での破壊がおこり、人類は遅かれ早かれ破滅してしまう。このジレンマを抱えているの「持続可能な開発」なんだ。

B:「持続可能な開発」をすれば、環境破壊の問題を解決できるんですね。

A:そうはいうけど、難しいよ。

 個人の自由を保障しながら、未来の子孫を含む人類全体の安定を図っていく。これが難しい。自分の欲望をどこかで抑えないといけない。それも、意識的に、継続して。

 「持続可能な開発」のためには、人間の発想の根本的な変革がいるんだ(長尾2001)。

B:本当に大変なんですね。

A:端的に言うと、次のような発想をすることが、「持続可能な開発」を行う事じゃないかな。

 《可能な選択肢はたくさんある。けれど、世界のため、未来の子孫のために、あえて自分に不利益をもたらす選択をするのを辞さない》。こんな行動をする人が増えないといけない。

B:どうやって増やすんです?

A:うーん、対話をしていくことだろうね。それしか人間の意識レベルからの変革は図れないからね。

 近代を乗り越えるためには、究極的には人間の生命次元からの、根源的な変革が必要だろう。対話の実践によって、ね。これがなければ世界が終わってしまうことになるんだ。

 ここの部分は非常に難しいから、もっと勉強していくつもりだけどね。

対話の不可思議さ。

A:さっきからこうやって対話してるけど、対話っていうものも不思議なものなんだよ。対話をしてるとき、よく自分の中にあるメッセージがそのまま口に出てくると思うじゃない? でも本当は違う。構造主義っていう考え方があってね、それによれば人間の話す内容はその人が作り出すのでなく、いままでその人が会った人、読んだ本などの無数の影響を受けているんだ。また日本語を話す限り、日本語に基づく内容でしか話すことができない(内田2002)。

B:当たり前じゃないですか。

A:そうとも言い切れないんだね。B君が僕に話すとき、はじめにB君の言いたいことがあって、それが言葉の形で表現されている、って思うでしょ?

B:はい、そう思います。

A20世紀に入って、その考え方は否定されるんだ。僕らは日本語っていう言語で話すね。この言語というものを離れては、人間の意識や意思は存在することができないんだ。人間の意識はつねに言語的なものとして言語に規定されている。

 ためしに、言語を使わずに考えてごらんよ。できる?

B:(しばらく沈黙)できないです。

A:ね。つまり僕たちは言語を離れて物事を考えることはできない。自由に物を考えているつもりでも、「言語」の制約がかかるんだ。

 また、対話をするとき、相手の発言によって「自分の心の中にある思い」が引き出されて口からでてくる、と普通は思う。でもこれも違う。「自分の心の中にある思い」は、言葉によって「表現される」と同時に生じるんだ。心の中で考えるときも、日本語の語彙を使って、日本語の文法規則に従って、日本語で使われる言語音だけを用いて作文をしているだけなんだ(内田2002)。

 自分が言葉を語っているとき、言葉を語っているのは自分そのものではない。自分が習得した言語規則、自分の学んだ語彙、自分が聞き慣れた言い回しや他人から聞いたり読んだりしたことが、自分の「思い」・「考え」になるんだ。よく「僕の持論は」とかいうね。この持論にいちばんたくさん入っているのは実は「他人の持論」なんだ。

 また、対話だったら直前に聞いた相手の発言をうけて、いままで思ってもいなかったことが「自分の思い」として出てくることがある。つまり、純粋な自分の思いは、存在しないんだ。

B:へー、恐ろしい!

A:こんな感じで、対話をしているとき「これは自分の考えだ」と思っても、それは自分の住んでいるところの文化・規則(先の話で言う日本語の規則のこと)や直前の対話、いままで読んだり聞いたりしたことの結果として表現されるにすぎない。このような考え方を構造主義という。

一流に触れよ!

A:さっきフーコーの話を出したけど、フーコーは構造主義の代表人物だね。構造主義とは人間の意識や考えは、言語や文化などの「構造」の影響を受ける、ということをいっているんだ

B:構造主義ですか。さっきの説明を聞くと、よくわかります。

A:人間は、自分が見聞きしたものの影響を受ける。また自分が見聞きしたものにより、自分の考えが作り出されていくんだわ。

 だからこそ、一流のものや人に意識して触れていかないといけない。二流・三流の雑誌やつまらないゴシップ記事ばかり読んでいては、自分の考えもそれらに毒されてしまう。しかし、一流の本や一流の人物に触れていれば、自然に自分の考えも一流のものとなっていくはずなんだわ。

 骨董品のお店に弟子入りすると、まずしばらくは一流品、つまりホンモノのみを見るように命じられるそうだよ。そうするうちに、自分の精神も一流となり、偽物・まがい物をみても直感で「これは偽物だな」と気づくようになるそうだ。両替商で偽金を判断するための訓練としても、似たようなことを実践していたらしい。

 だから、読んでも無駄な本・雑誌は極力読まない方がいいよ。知らない間に自分にマイナスの影響を与えるからね。読むなら一流の名著を。一人、気に入った作者が見つかったら、その人の言葉を自らのものにする、との決意で徹底的に読む。

 いまのは読書論だったけど、対人間に対しても同じことが言える。「この人は、すごい人だ!」と思える人を探し求めていくことだね。もし自分がとてつもなく尊敬する人物、つまり師匠と言える人間に出会ったときは、その師匠からどん欲に学んでいくといい。

B:はー、なるほど。これからもっと本を読んでいきます。師匠も探したいです。

A:だいぶ話し込んじゃったね。

 では、勉強がんばって! 邪魔したね。

B:いえいえ、学校では教えてくれないことを教えてくださり、ありがとうございました。

A取りようによっては、まるで僕がアブないことを教えたみたいだね。

 Aは左手首に目をやった。彼の腕時計は、話し始めからきっかり2時間経過したことを示していた。夕焼け空が、校舎の窓に広がる。(了)

参考文献

 本書執筆の際、参考にした書籍を挙げさせていただく。本文に挙げた問題をさらに考察する場合に、これらの本を開いてみると参考になるはずである。

 なお、本の並び方は著者名の五十音順である。

青木裕司『青木世界史B講義の実況中継 文化史編』(1997年、語学春秋社)

安彦忠彦・石堂常世編『現代教育の原理と方法』(2004年、勁草書房)

安藤達朗『日本史講義 時代の特徴と展開』(1994年、駿台文庫)

イヴァン=イリッチ著 東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』(1977年、東京創元社)

内田樹『先生はえらい』(2005年、ちくまプリマー新書)

内田樹『寝ながら学べる構造主義』(2002年、文春新書)

上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』(2002年、太郎次郎社)

奥地圭子『不登校という生き方』(2005年、NHKブックス)

田中智志『教育学がわかる事典』(2003年、日本実業出版社)

田中智志・今井康雄編『キーワード 現代の教育学』(2009年、東京大学出版会)

谷沢永一『人間通』(1995年、新潮選書)

長尾達也『小論文を学ぶ』(2001年、山川出版社)

パウロ=フレイレ著・小沢有作ほか訳『被抑圧 者の教育学』(1979年、亜紀書房)

林隆造『教育なんていらない』(1989年、大宮書房)

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(2005年、岩波新書)

山本雅男『ヨーロッパ「近代」の終焉』(1992年、講談社現代新書)

あとがき

 もともとこの本はH君との対話がなければ生まれなかった。彼に最大限の感謝をしたい。誰かとの対話が、行動を生むことがある。それを今私は実感している。

 この本の中で、どうしても気に入らない点がある。それは啓蒙的な「大人」(A)と啓蒙される「子ども」(B)との対比だ。「A→B」の一方向性のみが描かれている。本当の意味での「対話」が成立していない。なお教育学における対話とは「教員→生徒」の図式を崩し、「教員⇄生徒」の関係性に持ち込むことをいう。ブラジルの民衆教育者・パウロ=フレイレはこう語った。

対話をとおして、生徒の教師、教師の生徒といった関係は存在しなくなり、新しい言葉、すなわち、生徒であると同時に教師であるような生徒と、教師であると同時に生徒であるような教師が登場してくる。教師はもはやたんなる教える者ではなく、生徒と対話を交わしあうなかで教えられる者にもなる。生徒もまた、教えられると同時に教えるのである。かれらは、すべてが成長する過程にたいして共同で責任を負うようになる。

(パウロ=フレイレ著、小沢有作ほか訳『被抑圧 者の教育学』亜紀書房、1979年、81頁)

 パウロ=フレイレのこの言葉を自覚していきたい。

 ポストモダン思想を語っている割に、非常に近代啓蒙主義的な構図を持つ作品となってしまった。もっと対等な関係性の対話劇・対話型専門書にしたいのであるが。いささか難しい。なんとかして、AとBとの関係を「⇄」の関係にしたい。これは次回以降の『高校生と語るポストモダン』の続編以降の課題とする。

(了)

2008年夏)

 


第3章

小説・詩

ぽっぽこねんじゃ、あるいはサザン・オールスターズの夏。

『ぽっぽこねんじゃ、あるいはサザン・オールスターズの夏。』解説

教育とは


ぽっぽこねんじゃ、あるいはサザン・オールスターズの夏。

 『草枕』にあらずとも、山道を歩けば人は何かを考える。つまらないこと、会社のこと。進んでいくにつれて、段々と考えはより根本的なものに及んでいく。本作の主人公、入社三年目のビジネスマン・石田一(いしだ・はじめ)氏も、ひょんなことから山を登っていた。以下は、その記録である。

 気がつけば、山を登っていた。いつからであったか、見当もつかない。にっちもさっちも行かない仕事、神経をイラだたせられるワープロ入力。目がチカチカしたときは、目薬で何とかする。机に転がるドリンク剤。一本三百円は高い。上司の小言が胸に痛い。気軽さの裏にある、一人世帯の侘しさ。「ただいま」を言う相手もいない。

 いつから登っているのだろう。登っているはずであるのに、時おり下りがある。足に響く振動。靴は革靴。むし暑い。首に手をやるとネクタイを締めていた。真っ赤な勝負ネクタイである。そういえば今日は新製品のプレゼンの日であった。三ヶ月、かかりきっていた仕事だ。結果がうまくいったのかどうだったのか――というよりも、プレゼン自体やったのかどうか――よく覚えていない。

 日が暑い。今は八月。お盆休みはいつからだったか。腕時計をしていたはずなのに、手首には汗ばんだシャツのほかは何もついていない。こんな小説をいつか読んだ。そうそう、カミュ。「太陽があんまり暑いから」。「流れる汗をぬぐおうとして」。これは殺人者の話か。

 山を淡々と登っているつもりであるが、少し休んでいると、自分がどっちへ進んでいたか、わからなくなる。どちらが行くべき方向であるのか。というよりも、俺はそもそも、どこへ向かっているのか。頂上を目指すのか。山を越えるのが目的か。木々はどれも、高い。ヒノキや杉はあまりに真っ直ぐである。キッキッキッキ…。カワセミの声。クックルックク、クックルックク…。次は鳩だ。

 休むわけにはいかない。蚊やアブに襲われるからだ。息があがってくる。それでも進む。水分補給が登山にとって大事だと聞くが、俺は何も持っていない。ラーメン屋で飲んだお冷やが、最後の水分のようだ。あと二杯ほど飲んでおくんだった。

 俺という存在が、山を歩いている。そう考えていた。が、ふと気づくと俺の足が上にくっつている胴体を勝手に運んでいるように感じられる。ひょっとすると、この瞬間、足が意思を決定しているといえるのであろうか。山を降りる、という選択肢は残っている。けれど、何故か登り続けている。

 歩いているのは登山道なのか、それともけもの道なのか。蜘蛛の巣を怖がっていては、山は登れない。倒れた木や枝のすき間を、あるときは跨いで進み、あるときはしゃがんで進む。横たわる木に乗った瞬間、バキッと音がし、崩れる。ワイシャツは木の芽に引っ掛けてあちこちに穴が開いた。枝に体をひっかけてしまい、枝を折ってしまう。俺は山の破壊者なのか。

 平らなところへ出た。祠(ほこら)が二つ。失礼と思いつつ、扉を開ける。開かない。サビついた蝶番(ちょうつがい)。力を入れると、中に箱。グシャグシャしたこの空間を見て、無性に罪悪感を覚えた。

 ハア、ハア、ハア。シャツの袖で顔をぬぐう。後ろを見る。前方とほとんど同じ風景。俺は真っ直ぐに前へ向かっているのか。無意識のうちに、後ろへいってはいないか。何となく不安になる。

 息の音、鳥の声、虫の音。時おり、カサッという音。それ以外の音は、ない。息のみが俺の存在の証明か。目前に、道をとざす枝を見つける。くぐる際、ネックストラップがひっかかる。携帯の金具が、草に絡まってしまった。しょうがなくストラップを強く引く。草が抜けてしまった。

 ずっと歩き続けていると、自分の周りを飛び、また地面を這っている虫のことがどうでもよくなってくる。都会では、ムカデやヤスデを見たらすぐに殺虫剤である。いまはどうも気にならない。ただ進むだけ、だ。

 目的はとにかく登ること。この目的はいつからあったのか、自分で決めたのか、それは分からない。登ること、それ自体に価値を置いている俺がいる。

 都会にいた頃の自分――といっても、数時間前までここにいたのだが――は、どこへ行ったのか。ただ一歩足を出す、ただ登る。それだけ。理由などどうでもいい。ただ俺は無性に登りたいのだ。山を登れば、自分の状況を変えられるのか。そうは思わない。しかし、登らずにいられないのである。

 日が大分、傾いてきた。頂上には、いつ着くのだろう。携帯電話は圏外だ。誰かを呼ぶこともできない。

 薄暗い、山の中。足を止めたくなる。しかし、俺は何故か歩き続けている。耳を澄ますと、やはり息の声のみが、俺の存在証明である。

 

  ラララーララララララー

  ラララーララララララー

  砂まじりの茅ヶ崎 人も波も消えて…

 歩みを続ける中で、俺の内面のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはいつかのカラオケの席で俺が意味もなく熱唱した、サザン・オールスターズの「勝手にシンドバット」だった。山にいて海の歌とは、我ながら妙だ。

  さっきまで俺ひとり

  あんた思い出してたとき

  シャイナ ハートにルージュの色が

  ただ浮かぶ

  好きにならずにいられない

  お目にかかれて

 無意識のうちに歌い始めていた。

 

  今何時 そうねだいたいね

  今何時 ちょっと待っててオー

  今何時 まだはやい

  不思議なものね あんたを見れば

  胸騒ぎの腰つき 胸騒ぎの腰つき

  胸騒ぎの腰つき

  心なしか今夜 波の音がしたわ…

 「ラララーララララララー、ラララーララララララー」。俺は、歌い続けていた。歌というものは、なかなかに自身を励ますもののようだ。たとえ歌詞本来の意味とは違ってはいても、である。

 段々、暗闇は広まっていく。まだ登りである。懐中電灯があるわけではない。いつまで登るのか。

 その時であった。目前の枝に、俺の目は釘付けとなった。ゆるやかに動く生物。蛇であった。マムシか、何かである。

 俺は凍り付いてしまった。気づけば、そっと後退していた。そのまま、俺はもと来た道を進んでいた。登り始めが唐突ならば、降り始めも唐突である。決定しているのは俺なのか、何なのか。

 しばらく進む。不安感が広まる。「この道、通っただろうか?」。山道は逆から見たとき、まったく違う姿を現すことを、初めて知った。

 下りは登りよりも、足に響く。そして滑る。やむなく手も使い、慎重に降りていく。

  いつになれば湘南 恋人に逢えるの

  お互いに身を寄せて 

  いっちまうような瞳からませて

  江の島がみえてきた 俺の家も近い

  ゆきずりの女なんて

  夢をみるよに忘れてしまう

 口から、再びサザンの登場だ。非常に、野生的な歌だ。今の自分は、両手・両足で下っている。自分の野生が、目を覚ましたようだ。広がる闇に、怯える自分。万が一、ここで野宿する場合、動物に襲われはしないか。そう考えているうち、体が滑り落ちた。頭から思考が飛ぶ。手を離した一瞬の隙だった。足で支えて助かったものの、俺は思わず「生きたい!」と思っていた。地上に戻りたい。必ず戻りたい。そう願っていた。子どもの頃、迷子(まいご)になったときとよく似ている。

 田舎で育った俺は、街へ家族で買い物に行くとき、いつもはぐれてしまった。珍しいものに目を奪われ、家族と離れるからだ。あまりによくいなくなるので、「はぐれたら、駐車場に」という「駐車場ルール」が作られた。迷子になったときの寂しさは、大人になっても忘れない。この世の中に、ただ一人孤立して存在している、悲しき自分。半泣き状態で家族を見つけたときの安堵感といったらなかった。

 いま、俺は間違いなく迷子だ。社会からの、である。子どものときと同じく、俺はものすごく寂しくなってしまった。「帰りたい」との切実な思いが強まった。

 俺の中に、別の自分が姿を現したのだ。「子どもとしての俺」である。寂しがり屋で、弱々しいが、好奇心は失わない自分のことだ。「子どもとしての俺」は、田舎にいた少年時代、理性を持った俺の傍らに、常にいた。次第に、「理性の俺」に弱体化させられ、ついにはいるかどうかもわからなくなったのである。無目的に山を登れるのは、それは俺が「子どもとしての俺」を持っているからだろう。人から、「お前は子どもか!」と言われる度、意識して無理に殺そうとしてきた、「自分」。そうか、俺の今の不可解な登山は「子どもとしての俺」の逆襲であったのか。

 子どもの頃、こんな暗がりの中、山を下ったことがあった。俺の故郷には、「ぽっぽこねんじゃ」という伝統行事がある。室町時代から続いているらしい。これは地域の子どもたちが山へ登り、松明(たいまつ)に火をつけるところから始まる。夜になり、松明を片手に子どもたちが下山していく。「ぽっぽこねんじゃ、ほうねんじゃ」と言いつつ。なんでも、豊作祈願の思いがあるらしい。だから「豊年じゃ」と叫ぶわけか。しかし未だに「ぽっぽこねんじゃ」の意味を知らない。

 八月の下旬に、毎年行っている。俺も小六までは出ていた。燃えさかる松明を片手に地上を目指し進んでいくのは、なかなかにスリリングであった。

 大人の、「理性者としての俺」の中に、「子どもとしての俺」が立ち現れる。こいつを弱らせて小さくしていても、ろくなことがない。俺は意図的に叫んでいた。

  ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ

  ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ

 意味など、分からない不可解なフレーズ。大声で叫べるのは子どもだけだ。

  ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ

  ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ

 俺の中の、「子どもとしての俺」は、こうして復活した。子どもっぽくて、何が悪い。無目的に何かを行える、子どもを見習うべきところは多々あるのだ。センス・オブ・ワンダー忘るべからずとは、レイチェル=カーソンの言ではないか。

  ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ

  ぽっぽこねんじゃ ほうねんじゃ

 俺の視界の中に、民家の明かりが見えてきた。頭上には、満月が輝いていた。

2008年夏)


『ぽっぽこねんじゃ、あるいはサザン・オールスターズの夏。』

解説

著者に聞く。

――本稿のねらいは、何ですか。

藤本:「人は追い込まれると、山を登る。この山は形而下のこともあれば、形而上のこともある」ということをテーマとしております。

 生きにくさややりきれなさを、組織内にいる人間は感じます。そういうときこそ、「貫け!」と申し上げたい。

 本作は入社三年目の若者が主人公です。新書に『若者はなぜ三年で辞めるのか』(ちくま新書)というものがあります。これは城繁幸氏の本ですが、本作の石田一も三年目でリーチがかかっているわけです。「辞めるか、辞めないか」というリーチですね。仕事の大変さを実感し、苦悩をし続けた石田がふと気づくと山を登っている。これは実際の山であることもあれば、石田の内面の山であるかもしれません。とにかく、この登山は葛藤なんですね、仕事や人生についての。登っていくうちに、石田は本来の自分というものを取り返そうとする。山を降りるということは現実世界にもどってくることです。精神の葛藤が終わったわけですね。形作った「自分」ではなく、案外子ども時代の精神状態にもどっている、ともいえましょう。「ぽっぽこねんじゃ」という、石田の故郷にあった風習を思い出したわけです。

――若干、理解に苦しんでしまう箇所がありましたが。

藤本:それは仕方ないですね。処女作品ですから。私の場合は童貞作品とでも申しましょうか(笑)。本作は私が一気に書き上げたもので、その分至らないところが多くあったことと思います。ですが、あえてそれを残すことで、石田の複雑な葛藤が多少とも理解しやすくなるのではないかと考えたしだいです。

 文は意を尽くさず、ですね。ですが、人間の精神なんて、こういうものではないでしょうか。明快に、論理的に説明しようとしても、まだ言い尽くさないところがある。悩んでいると、はじめに何を悩んだか忘れてしまっても、なんだか知らないが悩んでいる、ということ、ありませんか。悩んでいるだけでは、筋道が見つからない、ということもあらわしていると思います。

 では悩みを解決するには、何をすればいいのでしょうか。

 ゲーテは『ファウスト』の冒頭に、こんなシーンを残しています。老齢のファウスト博士が旧約聖書を翻訳する場面です。「はじめに言葉あり」が本来の訳ですが、ファウストは「違う」と考える。で、いろいろ当てはめようとするわけです。あれがいいか、これがいいか。最終的にファウストは「はじめに行いあり」と書き記します。

 ファウストのような碩学が、物事はすべて何かを行うところから始まる、といっているのです。カール・ヒルティも「仕事を始めれば、知らぬ間に仕事がはかどる」と書いています。

 悩んで、何をするか分からないときこそ、まず何かを行う。何かを行っているなら、それを貫く。これが必要じゃないかと思うしだいです。石田氏もよくわからないけれど、とにかく動き続けている。悩んだり、壁にぶつかったりしたときは、とにかく動き続けることじゃないでしょうか。石田は歌ってもいます。いじいじ悩むより、何かを成したほうがよほどいいようです。

 私の好きな哲学者にアランがいます。彼は面白い言葉を残しています。いわく、「疲れたときは伸びをしろ」です。悩んだとき、われわれは頭のみで考えています。ですが、人間も動物です。体を動かせば、その分気分が軽くなります。私も何度もそれを体験しております。人は悩むとき、頭だけで悩むのでなく、体も悩んでいるんじゃないかと思うのです。だから体を動かすと、何か変わってくる。精神的に追い詰められた石田氏が、登山という行動に出たのは、何かを解決しなければ、という意思の働きかもしれませんね。本作でいう「子どもとしての俺」の逆襲でしょうか。

 あなたが悩んで不可解な行動を取ってしまうとき、それは「子どもとしての自分」の逆襲が始まっているのかもしれませんよ。(了)

2008年夏)


教育とは

教育とは夢だ。

教育とは未来を作ることだ。

しかし教育は権力だ。

教育は人のコントロールの異名だ。

教育は洗脳だ。

おまけに教育は無力だ。

それでも

教師は教育を信じるしかない。

教育は無限の可能性を持っている。

しかしそれもうまく働く時のみだ。

人権侵害と

洗脳の狭間、間一髪の所にあるもの、

それが教育であるのだ。

研究室にも

会議室にも

教育はない

あるのは

教師と生徒

親と子ども

人と人が出会うところ。

人と人との交わり、

それが教育でもある。

ともあれ

「教育とは何か」

との問いは

答えることができぬほど

難しい

それでも僕は

その答えを探したい

2007年夏)


第4章

書評・映画評論

●自殺・じさつ・ジサツ 映画『The Bridge

●たまには本を投げ出して… ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』

●青春の混乱と、葛藤。 北杜夫『どくとるマンボウ青春記』

●人間原点に回帰せよ! 神野直彦『人間回復の経済学』

●「はじめに一流企業ありき」な就活、やめませんか? 城繁幸『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』

●『三色ボールペンで読む日本語』。それ以後の私の三色生活。 斎藤孝『三色ボールペンで読む日本語』

●昭和天皇の戦争責任。 原武史『昭和天皇』

●全文主義の功罪。 書評:木原武一『要約世界文学全集Ⅰ』

●あなたにとって、大学とは何ですか? 書評:船曳建夫『大学のエスノグラフィティ』
自殺・じさつ・ジサツ

映画評論『The Bridge(2005)

 郷里・兵庫の八千代町。この隣町に、湖があった。名を翠明湖(すいめいこ)という。陸上部時代、この湖の周辺を走っていた。巨大な橋が、湖を横断している。その上を走るとき、なぜかしら寒気がしていた。立ち止まり、覗き込めば吸い込まれそうになる。この「巨大さ」がもたらす怖さと相まって、この橋からひとが何人も身を投げた、という事実が私に寒気をもたらしたのだろう。小学校時代の先輩も、この橋から飛び降り、命を絶った。どういう事情だったかは未だに知らない。映画『The Bridge』は忘れかけていた、私の中学時代の記憶を呼び戻してくれた。

 アメリカ・カリフォルニア州・サンフランシスコに架かる、ゴールデン・ゲートブリッジ。「太平洋からサンフランシスコ湾に入る通路をなす海峡」(『広辞苑』第5版)、金門海峡の上にある。年間900万人が観光に訪れる。2004年はそのうち、24名が橋から身を投げた。この橋で命を断った人の数は、1250名になる(映画より)。水面まで67メートル。即死。世界最大の自殺の名所、と映画では言っていた(私は東京のJR中央線だと思う)。

 ゴールデン・ゲートブリッジに設置した4台の定点カメラが、橋を写し続けた。映画は、定点カメラ映像と、自殺者に近しい人たちのインタビューから構成されている。映画冒頭、中年男性がいきなり橋の欄干を飛び越え、落ちていく。あまりにショッキングだ。午前4時に映画を観ていると思えぬほど、衝撃を受けた。

 観ていて気づいた点。よく晴れた日に、人びとは自殺している。カリフォルニアに晴れが多いから、当然といえばそうであるが、インパクトがある。自殺はじめじめした、暗い天気の日にやるもの、というイメージが私にあった。まさに飛び込む瞬間を見ていた人のコメントに、‘笑顔で飛び込んでいった’とあったことも印象的であった。 

 気づいた点の2つ目。自殺者に近しい人たちは、自殺前に、何らかの兆候を受け取っているようだった。たとえば‘俺はもうすぐ自殺する。ピストルでは汚れてイヤだ’などの直接的な表現。これが数年前から続いていた。回想し、「もっと愛があれば…」など、近しい人たちが後悔の念を吐露するシーンもあった。

 「本作の目的は自殺問題に答えを出すというより、我々の社会と自殺について問題提起をすることなんだ」とは、DVD収録・監督来日インタビューの言葉である。自殺は身近にある。にもかかわらず、人びとの関心をあまり引かない。日本では交通事故死は年間5000件程度。自殺は3万人。「自殺に悩む人がオープンに話せる環境づくりや彼らをポジティブに支援する方法が必要だ」とも監督はいう。

 カリフォルニアの快晴をバックに、何人も海に飛び込んでいく。しかし、我々は自殺を暗闇で、ひっそりと行われるもの、と考えている。自殺を考える人は、別の世界にいる、というように。無論、人が観ていないところで通常は自殺が起こっている。物置で、自室で、森の中で、自殺はひっそりと行われる。けれど、自殺は陰に隠すべきものではない。交通事故と同じく、あるいはそれ以上にありうべきことである。社会でも対策を採っていくべきだ。「自殺」というテーマを広く社会で議論しあっていくべきだ。カリフォルニアの太陽のように、白日の下に晒すのだ。「現実や真実を見ることを拒否するのは、助けやケアを必要としてる人びとに対しひどい仕打ちをすることになるんだ」(監督インタビューより)。

 ドキュメンタリーの目的は、現実の問題点を多くの人びとに知らしめることにある、と私は考える。編集の仕方によって現実が歪められる可能性はあるものの、ドキュメンタリーでしか伝えられないことがあるはずだ。「知らない」ということは、ある意味で幸せである。「知る」ことには、義務を伴うからだ。知ってしまった以上、何らかのアクションを起こさないことには、被害者に申し訳が立たなくなることがあるのだ。

2008年春)


たまには本を投げ出して…

書評:ピエール・バイヤール著/大浦康介訳

『読んでいない本について堂々と語る方法』(2008年、筑摩書房)

 読まないで本書の書評を書いてみようと思ったが、それはやめることにした。

 この本はいわゆるハウツー本でも、トンデモ本でもない。れっきとした文学の本である。そもそも、『読んでいない』といっていながら、《読んだが忘れてしまった本》として著者自身の本を挙げている。

 読んでいない本についてコメントしなければならないことは、意外にある。バイヤールはこの行為を否定的に見るのでなく、逆にポジティブに見ていくことを提唱しているのだ。

読んでいない本についての言説は、自伝に似て、自己弁護を目的とする個人的発言の域を超えて、このチャンスを活かすすべを心得ている者には、自己発見のための特権的空間を提供する。(中略)読んでいない本についての言及は、この自己発見の可能性をも超えて、われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。(213頁)

 読書とは、もっと能動的であるべきだ。本を通じ、「みずから創作者になること」(217頁)をしてもいいのではないか。『読んでいない本について堂々と語る』時、頭の中で創作作用が始まる。「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、社会的にこれより認知された活動と同じくらい立派な活動なのだ」(217頁)。それはまぎれもなく自分の思考であり、自分自身について語ることになるのだ。

 本を読むという行為のために、逆に自分の考えがなくなってしまうことがある。読むことによって、本質が見えなくなることがあるのだ。書評を書くのも然りである。あまりにも読みすぎた本については、何も言えない。著者が何を意図しているか、考えすぎるとかえって何もかけなくなる。学問も同じである。一年生の頃、「教育学って、要はこんなものだ」と恐れ多くも言えていた。しかし、今は「教育学って、結局何なんだろう」と却って分からなくなっている。レポートを書くときにも感じる。あまりにも多くを調査すると、「先攻研究に書かれていないだろうか」と思い、なかなか書けなくなる。思えば不思議なことである。

2008年秋)


青春の混乱と、葛藤。

書評:北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫、2000年)

 旧制松本高校時代、北杜夫は寮にいた。布団ムシやストームなる伝統、「ゴンヅク」などドイツ語と信州弁をごっちゃにしたような用語の存在…。私も高校時代は寮生活だったので、寮内の奇習をいろいろと思い出せる。早朝ボウリング、食堂清掃時の奇妙な掛け声、何故か皆いる国分寺のゲームセンター…。旧制高校と新制高校という時代の違いはあれど、寮という物に何かしら共通点があるように思う。

 北杜夫の青春回想録がこの小さな文庫本である。前半と後半でトーンが全く違う本だ。懐かしく気恥ずかしい寮時代を描いた前半部は、「バンカラ」で「バーバリズム」あふれる寮生活が語られる。しかし寮を出て、一人暮らしを始めた後半部からは青春特有の憂鬱が表されている。《狂乱の寮生活にはそれなりの意義もありおもしろさもあったが、一年も経つといい加減、多人数の中の生活が嫌になる。殊に私はそのころ短歌のほかに詩作も始めていたので、一人きりの孤独の生活を望んだ(121頁)》。前半とは違い、孤独さ・陰鬱さが文章にあふれている。他者と騒ぐことよりも自己の内面に向き合うようになるのだ。静/動の対比が印象的であった。

 未だ20歳の私が「青春とは何ぞや」と語ることは出来ない。悟りきったことを言えるのは青春を終えてしまった中年たちである。けれど北杜夫の本を読んで分かるのは青春のもつ二面性である。

 昔読んだ児童向け文学に‘友人といるときは「一人になりたい」と思い、一人でいるときは「誰かと話したい」と思う’という矛盾した心理を描いている物があった。「そんな風に感じることはあるのだろうか」と当時は考えていたが、いまの私は「それは事実だ」と思うようになった。

 大学時代は人生の意味について考えることの出来る貴重な時期である。むやみに使うのはもったいないことだ。昨年は姜尚中の『悩む力』が流行った。北杜夫や姜尚中同様、青春の悩みから逃げずにとことんまで向き合うことが大切ではないか、と思った。

*一人暮らし時代の日記が215頁からしばらく引用されている。「瞬間、信号燈は青に変っていた。僕は立ちどまろうと思ったのに(235頁)」。私もよく日々思うことを書き留める。読んでいて、「俺もこういうこと、よく書いているぞ!」という発見があった。

2008年秋)


人間原点に回帰せよ!

書評:神野直彦『人間回復の経済学』(2002年、岩波新書)

 大学に3年間もいれば、いろいろなウワサを耳にする。楽勝授業、「ためになる」授業のほか、アルバイト情報もかなり集まってくる。嘘か本当かは分からないが、「山崎パン」バイトの話として、次の内容を聞いたことがある。《ベルトコンベアの上を流れてくる菓子パンの上に、ひたすらゴマを振っていくだけ》。きいた瞬間、チャップリンの映画『モダンタイムス』を思い起こした。「発狂して人間ではなくなるまで、機械の指示にしたがわざるをえな」(『人間回復の経済学』75項)い仕事、とてもじゃないがやっていられない。しかし、現代の労働実体を調べていくうち、その「やっていられない」仕事をしている人々が実際に存在していることを知った。本書『人間回復の経済学』にも、言及されている。苦痛を感じるほどに非人間的な仕事を要求する、現代の企業。考えるにつれ、「就職したくないな」との思いが強くなる。

 リストラやフリーターの存在無しに、現在の経済を語ることはできない。先日もTVをマレーシア料理店で観ていると「シティ・グループが5万人のリストラ」と報道していた。《現在というきびしい時代においては、「経済」的に見てそれは仕方のないことだ》。私たちは無意識にこう考えているのではないか。著者の神野は「否!」と叫ぶ。

人間が利己心にもとづく経済人だという主流派経済学の仮説は、人間のある側面を純化した理論的仮説にすぎない。人間が経済人として生きなければならないという行動規範ではない。人間は悲しみや苦しみを分かちあい、やさしさや愛情を与えあって生きている。ところが、いつのまにやら、その理論的前提が、人間は経済人として生きなければならないという行動の規範に仕立てあげられている。(ⅱ項)

 この指摘は非常に興味深い。村上ファンド事件の際、村上氏が「金儲けしちゃダメなんですか?」という発言をしていたのは記憶に新しい。村上氏の言葉には《「経済人」であるのが正しいことだ》、との思いが込められている。村上氏のみならず、現代の資本主義や市場システムを見ていると、社会を動かすのは「儲けたい」という人間の利己心であるかのように感じる。けれど、実際のところ、それは「人間のある側面を純化した理論的仮説にすぎない」のだ。

人間原点という言葉。私の好きな言葉の一つである(余談だが、海外翻訳を読むと「最も~なもののひとつ」という言葉が多用されている。個人的には断言を逃げているようで嫌なのであるが、これも否定的意味での「大人」ワザのひとつであろう。つい使ってしまう)。神野は端的に言えば《経済システムを、もっと人間的なものとすべきだ》と主張する。

 この「人間的」という言葉は、非常に定義しづらい言葉なのである。暉峻淑子[1](てるおか・いつこ)のいう、生活面の「豊かさ」を実現すること、とでも言おうか。

人間が人間らしく生きられる社会の建設を、経済を用いて行う。これが神野のテーマである。そのために「産業社会」を超えた「知識社会」建設を行っているスウェーデンに、日本の未来の方向性を見ている。

 もともと経済という言葉は、「経世済民の術[2]」を縮めて用いられるようになった言葉である。「世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと」が元の意味である。人々を不幸から救うため、との意味があったのだ。現状の《リストラや搾取労働の正当化のための経済学》とは真逆である。本来は人間のため(端的には「苦しんでいる庶民のため」)に経済学があるべきであるのだ。

 経済という言葉が、人間のために作られたのであるならば、今の経済も原点に帰る必要がある。より人間的な経済システム構築を図っていくべきだといえよう。

 次に示す神野の言葉は、人間原点の経済構築を図る上で思想的支えとなるものである。

経済システムの創造主は、人間である。人間は経済システムを、人間の幸福に役立つ方向にデザインすることも、逆に人間を不幸へと導いてしまうこともできる。(185項)

人間は経済人ではない。人間は知恵のある人であることを忘れてはならない。人間の未来を神の見えざる手にゆだねるのではなく、知恵のある人としての人間が、人間のめざす未来を創造しなければならない。(187項)

 神野の姿は、私に《現状の問題を見て、「これは学問的に見て、仕方のないことだ」と思ってはならないこと》を教えてくれた。また《学問は、究極的には人間のため(人間中心主義とは違う!)であること》も伝えてくれた。教育の現状の悲惨さに対し、「仕方がないことだ」と思ってはならない。どうすればより「人間のため」の教育にしていけるのか。このテーマは私のこれから先の問題意識としていこう。(了)

2008年秋)


「はじめに一流企業ありき」な就活、やめませんか?

書評:城繁幸『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』

               (2008年、ちくま新書)

 私の先輩に、頭も良くて性格もよく、サークルなどにいても「仕事ができる!」という人がいた。きっと、卒業後は大企業に入り、バリバリ活躍されるだろう。私の想像を裏切り、その人は母校の学校職員になった。母校から声をかけてもらったそうである。これをみて、私は「もったいない!」と考えていた。普通に就活をしていれば、都市銀行や一流商社に入れそうなのに。

 この少し厚めの新書は、私の考え方を変えてくれた。私の中に「昭和的価値観」があることを自覚させてくれたのだ。さきの先輩の事例。‘一流企業に入る。そうすれば一生安泰’という昭和的価値観に従うのでなく、‘自らの生涯を、何に生かしたいか’という新しい価値観で進路を考えていた。自分がお世話になった場所に、恩を返したい。そしてさらに発展させたい。そのために一流企業ではなく、学校職員という‘人気の就職先ランキング’圏外にありそうな、地味な職業を選んだのだろう。

 就活生がやたら一流企業を狙うのは、大学受験時代の弊害が残っているからだろう。不確実性の時代、とりあえずいい学歴を持っているほうが役に立つ。そう考え、受験のとき、「march以上、できれば早慶」という選び方をする。私たちは受験と全く同じ発想で働く場を選択しているのではないか。就活も、「一流大学のどれか」と同じく、「一流企業の中のどれか」という発想なのだ。初めから、それ以外の選択肢を考えていない。『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』は、「アウトサイダーの時代」という副題の割に、「一流企業を狙わない」アウトサイダーにはあまり言及しない。「一流企業リタイア者が、外資系に行く、起業する、フリーになる」というレベルでのアウトサイダーであるのだ。

 無論、以前から「アウトサイダー」な生き方をする人はいた。かの夏目漱石は、帝大教授という、知識人最高のステータスを蹴って、朝日新聞社(当時、新聞界には今ほどの権威はない)に入社した。漱石の時代、大変にクレイジーな選択だといわれていたのだ。「せっかく帝大教授になれるというのに、蹴って民間に行くとは何事か!」と。近年になって、さきの先輩や夏目漱石のような「アウトサイダー」な生き方が、多少とも広がってきた、といえるのではないか。

 就職活動。何ともキツイ戦いである。自己分析にSPI、一般常識、時事問題。OB訪問、作文練習、面接対策えとせとらetc。こういう活動をしていると、「とにかく一流企業へ入ろう」という思いになってくる。こんなに苦労して、就職の準備をしているのだから。けれど、そんな中でも「自分の人生、何をしたいのか」と考えるゆとりが必要だろう。これは自己分析、というレベルの話ではない。もっと哲学的な営みだ。学校職員になった先輩は、この位相まで考えていたのだろう。

 自己分析と言っても、しょせんは「一流企業の中で、どこに行きたいか」を考える道具にしかなっていない。日本の就職活動は、「はじめに一流企業ありき」なのだ。私が就活をしている中で、感じた違和感はこれである。

 もう「はじめに一流企業(外資を含む)ありき」の就職活動、やめにしません? 『3年…』が発行された本年3月以降、「外資系」も厳しくなってきた。リーマンブラザーズを見てみよ。世界恐慌の波も、確実に近づいているようだ。

 それだったら、『3年…』で何例か挙げている(起業、フリーター雑誌の立ち上げ、僧侶、アメフト選手えとせとらetc)、企業に入らない生き方も考えるべきではないか。教員も、いい選択肢であろうと思う。「アウトサイダーの時代」なのだから。

 早稲田大学の教育学部生にとって、教員になるという道は、ある意味アウトサイダーだ。「せっかく早稲田を出たのに…」という世間からの無言の圧力がかかっている気がするからだ(太宰治風に「世間というのは君のことじゃないのかね」という突っ込みをするのは、今回は無しでお願いしたい)。この本は、「もっと自由に生きて良いんだよ」というエールを送っているような気がしてならない。

 一流企業に入るから、いい人生を送れるわけではない。この言葉は、よく言われている。しかし、一流企業を目指す就活生の動きを見ていると、未だに旧来の「いい大学、いい会社、いい人生」という図式が真理として、残っているかのようだ。そろそろ、気づいたほうが良いんじゃないですか?

2008年夏)


『三色ボールペンで読む日本語』。それ以後の私の三色生活。

書評:斎藤孝『三色ボールペンで読む日本語』

 ごく短い人生経験しか持ちえていない私。そのため、「自分の座右の書」や「座右の銘」など、聞かれても出てこない。「私を変えた一冊」なんて、何だろう。
 しかし、話をミクロにかえよう(私はよくマクロ視点とミクロ視点を交互に使おうとしている。マクロで話が詰まればミクロ、と逃げているところもある)。私の人生それ自体を変えた一冊や、何度も読みたいという本はまだ思い浮かばないが、自分の読書スタイルを変えた本なら、一冊ある。それが齋藤孝著『三色ボールペンで読む日本語』である。
 この本はベストセラーとなったので、御存知の人も多いであろう。本を読み、「まあ重要」というところは青、「すごく重要」には赤、「面白い」箇所には緑 で線を引くというやり方を提唱した本である。私の読書の仕方は、この本を契機に大きく変わった。まず、「本を買って読もう」と思うようになった。線を引 き、自分の形跡の残った本を座右に残しておくために。これは続編の『三色ボールペン情報活用術』に影響されたことでもある。‘よく情報をカードやパソコン に打って活用しよう、という人がいるが、本それ自体を残しておくほうが、情報は活用しやすく、また紛失しにくい’といった内容が書かれていた。
 また、ペンを片手に、本を読む習慣がついた。「お前、こんなに線引いて意味ないだろう」といわれようが、わが道を淡々といけるようになった。本を携帯す る習慣がついたため、常にペンも携帯しようと思うようになった。そのため私の携帯にはミニ・ボールペンのストラップがついている。
 齋藤氏の著書には、有効性の批判もいろいろ寄せられている。しかし、私にとって『三色』の本がなければ今の自分のスタイルは成立していなかったであろうと実感している。その 意味では、齋藤氏に感謝の念でいっぱいである。まんまと齋藤氏の主張にのせられているようだが、齋藤氏の言う「読書の型」を習得できたことは、自分の財産になっ ているような気がする。
 齋藤氏以外の読書法の本を、私は死ぬほど読んできた。速読術という怪しげなものにも挑み、それに対抗した「遅読術」なるものにも興味を持ったこともある。「ワルの読書術」は名前に引かれ、「私の読書法」なる本は暫く制服のポケットにあった。けれど、結局は高校受験の帰りによんだ『三色』に行き着い てしまうのだ。それだけ、私にマッチしていたのだろう。最近も、少し浮気をしていたが、新たな読書法を教えてくれる本を三色ボールペン方式で読んでいる自 分がいて、浮気は駄目だと実感した。
 本を読むときに、ペンを持つ。これだけで、本に対し、意識的に向かえるようになる。意識的にならない読書は、漫然とテレビを見ることに等しい。何か見た ような気はしても、結局何も残らない。ついにはコマーシャルや作り手の意図的な編集が、無意識層に残り、私の生活を裏でコントロールするようになる。
 何ももたずに本を読むことは、私にはできない。たとえそうせざるをえないときでも本の角を折ることで、意識的に本に対抗する。存在論ではないが、本はそれ自体に意味はない と思う。読む側である「私」の存在なくしては、本は単なる所有物やオブジェに過ぎない。「私」が書を開き、そして意識的に読むときに、初めて本は「本」に なることができるのであろう。

 先ほどの言を訂正。この本は読書スタイルだけでなく、私がノートを多色ペンで取るようになったきっかけを築いた。また、メモの地色を青にする契機にも なった。私は、小中学生はともかく、高校生にもなってシャーペンを振りかざして学習するのは能率的でないといつも考えている。消しゴムで消したところで、 どうせ自分以外誰もこのノートを読まない。だいいち、ノートをユダヤ系三宗教信者が持つバイブルの如く、何度も読むなんてことは恐らく無いはずだ。ならば、 ボールペンでシャッと二重線で訂正する。このほうがシンプルだ。

2008年夏)


昭和天皇の戦争責任。

書評:原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008

 『太陽』という映画がある。一人芝居で名高いコメディアン・イッセー尾形が昭和天皇役をやっていた。「あ、そう」と返答し、独り言をぶつぶつ言う天皇像がそこにはあった。イッセー尾形の演技が昭和天皇の実像にどこまで近いかは不明だが、「天皇」の生活を知ることの出来る興味深い映画であった。

 『昭和天皇』のなかで原武史は、祭事を重視する天皇の「実像」を捉えようとしている。昭和天皇は太平洋戦争終結を「三種の神器を死守するため」行ったと原は想像する。

天皇の祈りを本物にしたのは、戦争であった。(…)天皇が(太平洋戦争終結にあたって)最後まで固執したのは、皇祖神アマテラスから受け継がれてきた「三種の神器」を死守することであって、国民の生命を救うことは二の次であった」(12頁)

 なぜ三種の神器か。それは、20世紀初頭の南北朝正当論争により昭和天皇が北朝の血統を次いでいるにもかかわらず、「正統なのは南朝」とされたからである。「天皇家は血統に代わる正当性の根拠を見いださなければならなくなった。そこで浮上してきたのが、1392年の南北朝合一のさい、南朝から北朝に譲り渡されたとされる「三種の神器」であった」(30頁)。それゆえ自らのアイデンティティ確立のため、国民の命よりも「三種の神器」死守のため戦争を終える決断をしたのだ。山本リンダの「女一人とるために/戦してもいいじゃない」(『狙い撃ち』)と歌った。昭和天皇はアイデンティティのために戦をやめることにしたのだった。

 アイデンティティといえば、学問研究が自身の存在の証明・自己確認につながることがある。昭和天皇と自分が共通するであろう点はここである。昭和天皇は生物学だが私は教育学だ。高校時代に学んできたこと/いまの自分の生き方を教育学の研究を通じて再考することができる。昭和天皇は生物の神秘から自身に続く天皇の血統を感じ、そこに「神」を見た。

なぜ天皇は、開戦を決意し、実際に太平洋戦争が勃発してもなお、生物学研究にこだわったのか。それは、序に触れた元学友の永積寅彦も示唆していたように、自然界に生息する微細な生物の世界を探ることだけが、天皇にとって「神」に対する確証を得るための、ほとんど唯一のよすがとなっていたからではないか。(124頁)

 この本には人間として伝統と自己の研究との軋轢・家族との確執で悩む人間「ヒロヒト」が描かれている。天皇を無条件に受け入れるのでなく、「かくあるべき天皇像」を家臣団が持っていることがある。生物学の研究をする天皇に「そんなことよりもっと大事な祭祀をすべきだ」といった軍部がいた。また弱々しい印象をもつ昭和天皇に危惧を抱いた元老もいた。天皇という「仕事」も楽じゃないと感じる。

 天皇の「実像」ということからいえば、一般に言われるのとは反対に、昭和天皇は平和主義者でもなんでもなかった。少なくとも中国での戦争は賛同し、また側近の木戸幸一自身が天皇の戦争責任を問う発言をしているのだから。著者はこの本の随所で昭和天皇の戦争責任を問題提起している。

 よくマッカーサー会談の際に天皇が‘罪は私一身にある’等と話したことが取り上げられる。そこから天皇の戦争責任を問わない態度が広まったように思う。後世の学者が「天皇は無実でいてほしい」と思い、勝手に論を作り上げたのではないだろうか。「実像」の昭和天皇を探る研究は、まだ始まったばかりだ。

2009年冬1月)


全文主義の功罪。

書評:木原武一『要約世界文学全集Ⅰ』(2004年、新潮文庫)

 高校の図書室にトルストイの『戦争と平和』全6巻が大きな場所を占めていた。長い。単調。隣においてあった『失われた時を求めて』も長過ぎて読む気が失せる。そんな時の大きな味方がこの『要約世界文学全集』だ。原作の長さに関係なく、一作品をたった13ページに収めている。それでいて原作の魅力をきちんと伝えている。サン=テグジュペリ『人間の大地』とカミュ『ペスト』には十分に引き込まれた。

 名著の要約。この言葉を聞いて、「安直だ」とか「それでは読んだことにならぬ」という批判が聞こえてきそうだ。批判者のこの言い分が表れたのはいつごろか? 大正時代からである。

 明治以前、よい文学には大体「普及版」・「要約版」があった。原作を分かりやすく縮訳した本があったのだ。大正時代にこの風潮は否定される。「原文で読まぬと意味がない」という原文主義が広まっていったのである(谷沢栄一『人間通』)。

 原文主義は何をもたらしたのだろう? 作者オリジナルの物語を読むので、作者の肉声に迫ることができる。文体・リズムを味わうことができる。作者が本当に伝えようとしたかったことが分かる。利点ではこういった所だろうか。あらゆるものはコインの表裏。原文主義のデメリットも当然存在する。読むのに時間がかかる、あるいは原文を読むには相当な教養が必要である…、等など。文学は文化である。読者に読まれることで初めて価値が生じるのである。トルストイやドストエフスキーが苦労して書いた文化遺産を読むことで、読者の人間性や教養が高まっていく。しかし、原文主義を取ることは文化遺産を知識人のみに独占させることになる。原文は読みにくい。長い。難しい。「要約を読むのは安直だ」と主張することは現代に生きる多忙な読者から、文学文化を奪うことになる。

 大文豪の書いた文章はたとえ一部の抜粋や要約であっても、大きな文化性をもっているものだ。だからこそ「要約本」が価値をもつことになる。いま本屋に増えている[世界文学を漫画化した本]にも大きな意味合いがあるだろう。

 名作の「要約」や「漫画」では原作に及ばないのは当然である。しかし原文に入るきっかけになる。それ自体でも原作の文化性を人々に伝えるはたらきがある。文学を知識人から解放せよ。もっと(私を含めた)大衆に解放していくべきだ。この『要約世界文学全集』は出来がいい要約をおさめている。文化解放の一助となるであろう。

2008年冬)


あなたにとって、大学とは何ですか?

書評:船曳(ふなびき)建夫(たけお)『大学のエスノグラフィティ』(2005年、有斐閣)

 早稲田大学125周年であった2007年、次の疑問文に学生・OB/OGが回答している写真がキャンパス中に貼られていた。〈あなたにとって、早稲田とはなんですか〉。ある人は「青春」と答え、ある人は「家族」と答えた[3]。早稲田大学という存在を自分なりに表現する。いかようにも答えられる問題に出会うとき、回答にその人物の個性が出る。

 自分はどう答えようか。気づけば大学3年の冬。早稲田大学にいて多くのドラマがあった。現在の回答は「恐るべき経験型学習の場[4]」である。あと10年・20年すれば変わってくるであろう。

この本は現在を描いて、大学というものの常のあり方を見てみようというところがあります。その時、私がある大学のある研究をしている一人の個人であることは、描く大学像に不足やゆがみをもたらさないか、という問題が出て来ます。それはもとより認めるところです。個人の一視点から大学がどのように見えるか、その中に、どのような大学の本質といえるようなものがかいま見えるか、が狙っているところですから」(ⅱ頁「はじめに」)

 本書『大学のエスノグラフィティ』は冒頭に描いたように「筆者から見ての大学像」を描いた書籍である。筆者・船曳氏は東大教養学部教授だ。「あなたにとって東大教養学部とは何ですか」との問いに一冊を使って答えようとしている。船曳ゼミや教授会の様子・大学教授の生活など、一般人(学生も含む)が伺い知ることの少ない「大学像」が書かれている。大学教授・職員から見たとき大学生は「お客様」となるのである。学生の立場から見る大学の姿と、大学教授や職員から見るそれとは違っている。こんなごく当たり前の事実に気づいたのはこの本を読んだためであった。研究の道に進みたい自分として、非常にためになる本だ。特に印象に残ったところを最後に引いて本稿を終えることにする。

大学教授になるのはどういう人でしょうか。友人で大学教授をしている人はいますか。いたら、彼らは小さいころどのような人でした? 特徴を挙げれば、やはり勉強が好きだった、何となくいうことが変わっていた、おとなしかった、小さいころから何々について知りたいと言っていた。こういったところでしょうか。(…)ここには欠けているものがある。それがないと、大学教授になれない、もしくはなってもそれを続けることが出来ずに、ドロップアウトしてしまう。それは、先のイメージにやや反する、「攻撃的意志」と「情報処理能力」です。

 ものを考えるのが好き、本を読むのが好き、というのはどの分野にもいる、知的でおとなしい人です。大学の教師には、それを人に知らせたい、そのことについて誤った考えがあれば正したい、という攻撃性、もう少し穏やかに言えば積極性がどうしても必要となるのです。(95頁)

2008年冬)


おわりに

 今までの3年間の総集編とでも言うべき本を作り、大学3年の春休みを終えたい。

 この思いから、本書作成を考えました。懐かしい文章に出会ったり、自分の筆力のなさを改めて認識したりと、まとめながらいろいろ勉強になりました。「学びて時にこれを思う、また楽しからずや」とは孔子の言です。

 この他にも本を作るとき統一性が必要なことなど、多いに勉強になりました。またこれだけたくさん書いてきたようでも、合計で5万字です。一般的な新書の文字数にも達しない…。学問の深遠さを思います。

 この本が一体誰に読んでいただけるのか分かりませんが、ともかく完成したことを喜びたいと思います。

 最後になりますが、この本を私の師匠に捧げたく存じます。

平成21316日 

早稲田駅前のカフェ・シャノアールにて。


著者略歴

  藤本研一(ふじもと・けんいち)1988年うまれ。

       早稲田大学教育学部三年生。教育学者を志望。

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初出一覧

講演会企画サークルteam WSP発行『p'age』掲載分、およびそのボツ原稿。

講演会企画サークルteam WSP発行の企画パンフレット掲載分。

岡村遼司ゼミの配布資料。

自分のブログからの引用。

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2009年3月16日 第1版第1刷発行

著作集・高校生と語るポストモダン

著者 藤本研一

発行 藤本研一




[1] 岩波新書『豊かさとは何か』の著者。バブル期の日本と西ドイツとを比較し、《日本は物質的には豊かかもしれないが、生活の質の面では豊かであるといえるのか》と問題提起をした。

[2] 『新明解四字熟語辞典』では、次のように説明されている。〔世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと。また、そうした政治をいう。▽「経」は治める、統治する。「済民」は人民の難儀を救済すること。「済」は救う、援助する意。「経世済民」を略して「経済」という語となった〕。

[3]漫画家・やくみつる は‘神宮球場下の闇鍋の味’というような回答をした。しかし学生団体からの[品位が…]というクレームに怒り、回答を取りやめたらしい。

[4]サークル活動やボランティア等での文字通り「泣けてくる」経験・「泣いた」経験。「恐るべき」にはこのような意味が込められている。